浅野直樹の学習日記

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2015 / 4月

大学院での学習記録

大学入学から大学院(京大)受験までの学習記録の次は大学院での学習記録です。

 

修士課程

研究室に所属ができるということが学部の頃と比べたときの最大の違いです。たまたま同年代の研究室員がほとんどおらず、年上の方が多かったので、いろいろと教えていただき刺激的でした。学問的な興味はある程度共有しつつも、研究テーマや性格などは多様で、本当に面白かったです。他の研究室の人も交えて読書会をしたり、その後に季節のイベントをしたりと、活気がありました。

 

心理学や社会学関係を中心に本も読み続けて、自分の中での思想の核を形成したのもこの時期です。卒業論文と比べて修士論文では社会的な観点が増えました。これもせっかくなので固有名詞が出ている謝辞の部分だけカットしてあとはそのままアップしておきます。

修士論文サムネイル

修士論文もがんばって仕上げて自分の中では満足のいく出来になりましたが、興味を優先しすぎたかもしれません。研究職に就くという意味ではあまり評価されないでしょう。

 

修士課程を終えるときにはその後の進路を迷いました。まだまだ調べたいことはあり進学したいという気持ちが強くある一方で、経済的にいよいよ厳しくなってきて、自分の能力や適性と環境を考慮すると進学するのは危険なようにも感じました。就職活動をしようとしたり、公務員試験を受けたりもしましたが、そのような状態で就職を決められるはずもなく、結局進学することになりました。

 

博士課程

日本学術振興会の特別研究員に採用されなかったので経済的な不安はますます高まりました。しかも最初に投稿した学術論文も不掲載となったので、この時点で研究職に就くことはあきらめました。

 

それからは塾関係の仕事の比重が高まりつつも、京都アカデメイアなどで学問的な興味を追求し続けています。博士課程では図書館カードのために授業料を払っていたようなものであって、ここに書くこともこれ以上ありません。

 

 

 

 



大学入学から大学院(京大)受験までの学習記録

高校から大学受験(京大)までの学習記録の次は大学の学部での学習記録です。

 

1回生

大学入学以前から社会や心理に興味があり、たくさん本を読んできたので、大学ではどのような学びができるのかとわくわくしていました。シラバスをめくると熟読してしまい、あっという間に時間が経ちました。履修科目をかなり自由に選べたので、社会学や心理学系を中心に受講しました。

 

授業もさることながら、大学図書館に圧倒されました。公共図書館とは比べものにならないくらいの蔵書数です。棚をめぐって興味の赴くままに借りて読みました。

 

また、大学に入ってようやくパソコンを使い始めました。当時はインターネット回線も遅いし、大学のメディアセンターも混んでいましたが、新しい世界に触れられて感動しました。授業やプライベートでホームページ作りをしたことは、その後役立ちました。

 

高校まで陸上部で活動していたので、アメフト部に勧誘されたりもしましたが、「大学に入って一番したいことは家庭教師だ」と答えて怪訝そうな顔をされたのを覚えています。その言葉通りにすぐ家庭教師や塾の仕事を始めました。今から思えばよくそのような下手なやり方で教えていたものだと恐ろしくなりますが、それでも熱心にやっていたことは間違いありません。

 

2回生

少しずつ専門性が高まってきて、ゼミ系の授業にも参加するようになりました。社会学のゼミでは個人の主観に着目したミクロなアプローチもあれば、統計を用いたマクロなアプローチもあるといったことを一生懸命発表すると、それなりに受けがよくて、自分で本を読んで考えたこともそれほど的外れではないのかなという手応えを得たことを覚えています。

 

授業の一環で留学生とチームを組んで研究発表を行うということもしました。その水準はともかく、楽しかった思い出がたくさんあります。

 

情報探索入門という授業を契機にして、レポートの書き方や参考文献の探し方などを意識的に学んだのもこの時期です。何かを調べようとしたら最初に百科事典などの辞書類を読む、本を探すために芋づる式、本棚のブラウジング、webcatplusを使うといったことは今でも実践しています。

 

3回生

少しずつ卒業論文を意識し始めました。自分自身の悩みについて考えるためにも精神分析を深く学ぼうとしました。入門書や概説書の類も読みましたが、精神分析の創始者であるフロイトの著作をひたすら読みました。日本語とはいえ偉大な著者の原典に当たるという経験をしたのは大きいです。

 

塾や家庭教師の仕事のほうも自分でプリントを作るということをやり始めて、少しずつ上手になってきていたと思われます。文系コースだったので高校で学習しなかった数学IIICをこの時期に一通りやっておいたのもよかったです。

 

その他教育系以外のアルバイトもたくさんしました。世の中で生きていくために必要な事柄を実地で学びました。

 

4回生

このように学業にのめり込んでいたので、進路は迷わずそのまま人間・環境学研究科に進学することを決めました。大学院入試はそれほど特殊な対策を必要としないので卒論を一生懸命書けば大丈夫だろうと思っていました。むしろ心配なのは経済的な面でした。

 

大学院入試のための対策をあまりしなかったといっても、語学だけははっきりと答えのある試験だったので、過去問を手に入るだけ解いて同級生と採点をし合いました。第二外国語に苦手意識があったので英語だけで受験することにしました。

 

卒業論文を一生懸命書きつつ、そこに盛り込めなくても同時並行で新たな知識も仕入れることで、自然と専門科目の対策はできていました。

 

大学院入試の本番では手応えがわからないだけに不安もありましたが、合格できました。

 

そして卒業論文も自分なりにがんばって仕上げました。せっかくなので恥をしのんで載せておきます。

卒業論文サムネイル

 

 

 



高校から大学受験(京大)までの学習記録

中学校から高校受験(茨木高校、洛南高校)までの学習記録から、高校入学以後、大学受験(京大)までの記録です。

 

高1――いろいろなショック

高校に入ってすぐにカルチャーショックを受けました。休み時間にみな行儀よく座っているのです。出身中学では休み時間はおろか授業中でも立ち歩く人が珍しくなかったので、これはショックでした。

 

塾つながりで既に関係性がある程度できていたのもびっくりしました。塾に行っていなかったのは学年でも私だけだったかもしれないほどです。

 

これは先入観のせいかもしれませんが、どことなく嫌な感じの人が多かった印象があります。自己中心的だが頭は回るので言い訳などはうまいといったような印象です。その代わり殴る蹴るといった物理的な暴力はほとんど見られなかったように記憶しています。

 

学習面でもそれなりの衝撃はありました。初めての定期テストで数学が70点くらいしか取れなかったのです。といっても平均点が3、40点台のテストだったので、クラスメイトからはできるという目で見られました。実力テストでは平均して100点中の40点くらいしか取れなくてさすがにへこみましたが、これでも学年1ケタの順位だと後で知りました。それまでは何となくバカにされているように感じていたのが、テストで相対的によい成績を取っていることが知れると見る目が変わったことのほうが印象深かったです。

 

その難しい数学のテストを作った先生は教科書を一切使わず自作の体系的なノートで授業をして、遅刻したり宿題を忘れたりした生徒を立たせるような先生で恐れられていましたが、その独特の説明は今でもよく覚えています。ほかにも「水はスペシャルなんです」が口癖の化学の先生や、いかにも平安時代が大好きそうな古文の先生など、教え方もさることながら、その情熱に感銘を受けました。

 

高2――迷いのない選択

高2になるときにいくつかの選択科目があって、理科で地学を選ぶと自動的に文系になるという仕組みになっていたところで、地学を選びました。適性は理系のようでしたが、社会的な興味がはっきりしていたので、文系コースになることにためらいはありませんでした。数学はさらに磨きをかけたかったので、基礎から丁寧にする少人数クラスを選びました。そのクラスは数学が苦手な人向けだったようで、それでよいのかと何度も先生から確認されましたが、基礎からしっかりとやりたいということで意思を貫きました。どちらの選択もいい判断だったと思います。

 

ある時の数学の定期テストで、普通のベクトルの問題と、公開鍵暗号の問題とを選択できたことがあり、興味本位で後者を選んだということを覚えています。楽しみつつ苦労もしつつ90点くらい取れました。これもまたいい選択でしたし、後で普通のベクトルの問題も解き直したのも我ながら立派だと思います。

 

さて、高2のときの同じクラスには学年一成績がよいと評判の人がいました。現役で京大理学部に行って司法試験にも合格した人です。確かにその人はよくできましたが、勉強のためにいろいろなものを犠牲にしているのではないかと思わされるような人でした。その点私は総合的な成績では負けていたでしょうが、勉強のために何も犠牲にはしませんでした。

 

陸上部に打ち込んでいたことはいい思い出です。地区予選も突破できないような選手でしたが、全力で打ち込んだので悔いはないです。陸上を通じて学んだ、己を知るということや、試合当日にピークを合わせるといったことは、勉強や試験でも大いに生きています。人間関係なども含めて青春ですね。

 

 

高3――何も知らないまま京大入試に向けて勉強

自分の中では高校を卒業したら働くものだという感覚があったのですが、99%以上進学する環境でしたし、先生に相談したら政治家など社会を変えるような仕事をしたいのであれば大学に行ったほうがよいと言われたので、大学に進学することまではすんなりと決まりました。

 

そこからさてどうしようかと考えました。経済的な理由から国公立大学しか考えられず、距離と雰囲気から京都大学がいいかなと思いました。学部は社会や政治に興味を持ちつつ、心理学にもかなり関心が出てきていたので、総合人間学部がよいのではないかと思いました。高3になっても相変わらず塾へ通わず、通信教育もやらずだったので、それが適切な志望なのかどうかは全くわかりませんでした。

 

高校受験のときと同様に、夏までは学校の教材でひたすら復習をしました。しかし中学のときとは違って、手応えを得ることはできませんでした。

 

数学は定理や公式を理解できた(暗記ではなく論理的に証明できた)のですが、入試問題のパターンなどは把握できていませんでした。英語は文法事項などは何となく聞いたことがある状態でしたが、理解が甘く、語彙力が不足していました。国語は古文の助動詞あたりは意識できていましたが、漢文に句形というものがあるという発想すらありませんでした。社会は地理、世界史、現社を入試で使う予定でしたが、どれも練習量が圧倒的に不足していました。理科は地学でセンター試験だけだったので、一番ましだったと思います。受験業界に身を置く今となればこのような分析もできますが、当時は何をすればよいのかわかっていませんでした。

 

というより受験勉強をするということを体感的にわかっておらず、図書館で心理学関係の本を借りて読んだりすることのほうが多かったです。京大の入試形式からすればこれが結果オーライになるのですが、入試形式などつゆ知らず興味の赴くままに本を読んでいました。陸上部も高3の冬休みまで続けました。

 

受験対策らしきことは模試を数回受けたくらいです。それも数千円を払うのが惜しくて受けるかどうか迷った挙句に、何となく受けることを決めたものです。マーク模試と記述模試、大学別模試の区別さえついていないような状況です。それでもD判定やE判定が多い中にB判定も見たことがあるので、それなりの実力はあったのでしょう。

 

冬休みからは学校で借りられたお下がりの赤本で練習を積みました。センター試験は10年分近く時間を計って解きましたし、京大の二次試験の過去問と京大模試を集めた問題集もだいたい解きました。国語では解答欄の大きさを計って再現して、それを適度に埋めることまでしました。習うより慣れろです。

 

センター試験――1日目に調子に乗って、2日目にこける

1日目は英語、地理、数学という時間割でした。雪がうっすら積もっている山のほうの大学へ受験しに行ったことをよく覚えています。

 

当時の総合人間学部(文系)ではセンター英語が足切りにしかカウントされなかったので、英語は気楽に受けました。過去問でもそうでしたが、長文問題はパーフェクトペースで進んで発音や文法はけっこう間違えるという形でした。地理はたまたま知っている問題を多く引いたのか、かなりの手応えがありました。

 

次は数学です。当時のセンター数学1Aは数列、平面幾何、コンピュータの中から1つ選択するという形式でした。大多数の人は数列を選ぶのですが、それだと時間が厳しいので、私はコンピュータを選ぶという秘策を温めていました。誰に教わったわけでもありません。まず入試要項のどこを見てもコンピュータが禁じられているとは書いていないことを確認し、自分で問題を見て、理解し、過去問で試して実行可能だと感じていました。本番では予定通りにコンピュータを選びました。当時の数学2Bはベクトル、複素数、確率分布、コンピュータの4つから2つを選びます。確率は大の得意だったので当然選ぶとして、もう1つはコンピュータを軸にしていました。本番ではコンピュータが少し考えてもわからなかったので、その場の判断で解きやすそうなベクトルを選びました。

 

当日の夜か翌日の朝に自己採点をすると、英語が166、地理が91、数学1Aが100、数学2Bが100だったので、これはいけると思いました。後から振り返るとその油断がいけませんでした。

 

2日目は国語、地学、現代社会です。国語は大問1の評論はめったに間違わなかったので本番でも慎重に解きました。小説、古文、漢文は過去問でもできるときはできる、できないときはできないと不安定でした。そして手応えもよくわかりません。地学は範囲が狭かったので満点を狙いたいところでしたが、2,3問怪しかったです。現代社会は社会の予備用科目で、1日目の地理の91点を超えられる可能性は低かったので、念のために受けただけです。

 

2日目の結果がひどいもので、国語が148、地学が94、現代社会が80でした。現代社会を抜いて699/800、実際の入試換算得点は社会と理科が2分の1、数学と国語が4分の1換算だったので、179/200でした。1日目のプラスを2日目で使ってしまった感じで、ボーダーのほんの少しだけ上でした。

 

二次試験――実力を最大限に発揮する

京大の入試ではセンター試験よりも二次試験の割合がかなり高いので、二次試験が実質的な勝負です。

 

国語は現代文、擬古文、古文の3題で、ひたすら記述式の問題でした。本文を読んで理解し、設問にできるだけ丁寧に答えました。科目の性質上、どういう点数になるのか予想しづらいものですが、誠意は伝えられたと思います。

 

数学は大きな問題が5つあるというシンプルなものです。2問を完答してもう1問もほぼ解いて、残りも精一杯の記述はしたので、文系数学としては上出来です。

 

英語は和訳と英訳というシンプルな形式です。英文というよりも背景知識から内容がだいたいわかったので、大きな間違いはしなかったと思います。

 

世界史は300字の論述が2題あり、残りは語句などを答える問題でした。個人的には知識不足のためにこの4科目の中では最も苦手としていましたが、自分の中ではましなほうだったという手応えを覚えています。

 

実力を出し切った感触はありました。

 

後日談

これで無理なら後期試験を受ける、それでもダメならもう一年やるつもりでした。浪人するとなればアルバイトをしながら宅浪することしか考えられませんでした。アルバイトをしながらどこまで勉強できただろうかと考えると、今でもヒヤヒヤします。

 

無事に合格できて本当によかったです。後で成績開示をしたら、そこそこ上位だったようです。

 

2015年04月02日21時08分22秒

 

出身高校では合格体験記を募集していたので張り切って原稿を書いたら何とボツになりました。「世の中には経済的な事情などで勉強できない人がたくさんいる、勉強したくなければしなければよいではないか」といった内容だったせいでしょうか。それが本音でしたし、今でも基本的な部分で考えは変わっていません。

 

 



中学校から高校受験(茨木高校、洛南高校)までの学習記録

(狭い意味での勉強法や受験に関する事柄は最後の節にあります)

 

中学入学以前の学習記録からいよいよ中学入学、そして高校受験(茨木高校、洛南高校)までを振り返ります。中学受験をした人は学年に一人いるかどうかといった程度だったので、当然のこととして地域の公立中学校に進みました。

 

中1――最大の転機、退塾事件

小学校の勉強にはついていけていたので、中学校に入ってもそれほど戸惑いませんでした。最初の定期テストも平均80点くらいあったと思います。

 

一つ戸惑ったのが英語で、私は初めて習うのに、塾で先取りをしている人もけっこういて、苦手意識を持ってしまいました。youとyourの違いがよくわからなかったことを今でも覚えています。

 

中1の中頃には私の学習人生において最大の転機が訪れます。それは塾を辞めたことです。

 

中学に入学する頃に友人から誘われてある進学塾に入りました。よくできたほうではあったのですが、その塾の競争を煽るような雰囲気に違和感を覚えました。偏差値の高い高校に進学することを当然のごとく目標にして、テストの成績上位者の名前を壁に貼り出すようなところだったのです。他方で中学校の友人のかなりの部分は勉強よりも友人関係の義理などを重視する価値観を持っていました。定期テストの勉強をするという理由で遊びの誘いを断るなどという発想はありませんでした。私もこうした価値観を身に付けていたので、塾に違和感を覚えたのでしょう。

 

塾ではあからさまに反抗的な態度を取っていたので、ある日とうとう退塾を迫る電話が家にかかってきました。また、ほぼ同時期に、上記の価値観から学歴主義に反発して、学校の定期テストでわざと悪い点数を取るということもしました。そして親からは頭ごなしに怒られました。

 

この時期にかなり悩んだ結果、およそ次のような解決を図りました。自分のためだけの勉強はせず他の人のためになるような勉強をすることと、塾には行かずに今まで以上の学力をつけることです。それからは覚悟を決めて勉強に取り組み、定期テストの予想問題をクラスで配ったり友人の質問に答えたりし始めました。この決意をしてから最初の定期テストでは英語で100点を取り、全科目で平均しても95点くらいありました。

 

勉強を放棄するのではなくこのような解決に向かったのは、勉強そのものは好きだったことと、自分は勉強で身を立てるのだという意識があったからだと思います。理不尽なことに対抗するためにも力をつけなければならないということもありました。

 

中2――社会性の目覚め

自分の中での転機を迎えることで、社会への関心も目覚めてきました。新聞をよく読むようになり、図書館でも政治関係の本をたくさん借りました。家には本がほとんどいような環境ではありましたが、新聞と公共図書館が利用可能だったのは幸いでした。

 

こうした意識から学校では生徒会長になりました。特に何かの業績を残したわけではありませんでしたが、朝礼などで話す際には当たり障りのない原稿を読むのではなく、メモは見ずに自分の言葉で語ることを心がけました。

 

図書館では政治関係の本とともに、ギャンブル関係の本をよく借りました。ダビスタというゲームの影響もあって競馬にはまりました。必勝法を求めて、本に書かれた方法を一つずつ自分の手で検証していました。どれ一つとして検証に耐え得る方法はありませんでしたが。

 

高い意識を保っていたので、学校の定期テストの平均点は90点以上ありました。

 

中3――進路の迷い

高校進学を考える段になると進路に迷いました。同級生の多くが進学する地元の公立高校と遠く離れた進学校との間でです。中1の転機を乗り切った考え方からすれば前者を選びたかったのですが、親の圧力もあり結局は後者を選びました。

 

実はこれが根深い問題で、学校の先生方の間でもどちらがよいか意見が分かれるところだったことでしょう。キーワードで言うと「地元集中」か「偏差値」かです。高校にはいろいろな学力生徒がいたほうがよいのか、それとも学力別に高校を編成したほうがよいのかという問題です。私のときは学校の先生からどちらかに強制や誘導されることはありませんでした。そして今でもどちらを選択したほうがよかったのかわかりません。進学校を選択することで結果として学歴的にはエリートコースを歩みましたが、その世界の価値観に適応できなかったものですから。

 

内申書という制度にも疑問がありました。相対評価で10が何人、9が何人…と決められていたので、自分がいい点を取るとその分誰かが悪い点を取ることになったのです。自分の点数の途中経過を聞いて、高すぎると感じて下げるように頼んだこともあります。

 

高校受験――制度と勉強法

結局進学校のほうを受験することにして、公立高校と私立高校を併願しました。

 

当時の大阪府立高校の入試制度は、内申点が440点満点、当日の試験が400点満点の合計で合否が決まりました。内申点は10段階評価をされて、5教科(英、数、国、社、理)は4倍、副教科(音、美、技家、体育)は6倍で計算します。確か私は英語が9、数学が10、国語が10、社会が10、理科が10、音楽が9、美術が6、技術家庭が9、体育が10で合計400点でした。それだけあれば内申点でリードしていることになり、当日の試験は進学校であれば満点に近いところで勝負が繰り広げられるのでそれほど差がつかず、まず合格は間違いないという状態でした。私立高校のほうはどうなっていたのかよくわかりませんが、基本的に当日の試験が重視されたのだと想像します。

 

なぜそこまで制度や内申点のことを覚えているのかというと、当時自分の周りに手取り足取り教えてくれる人がいなかったので、自分で理解するように努めたからです。

 

勉強法としては学校でやることを大事にして、中3になって配布された問題集やプリントを活用してとにかく復習を重視しました。夏休みを終える頃にはかなりの手応えをつかんでいました。

 

数学は得意だったので図形問題でひらめきが足りずに解けない以外はまずどの問題も解けました。国語は漢字や文法はコツコツやってきていたので得点できましたし、大人向けの本をたくさん読んでいたので読解問題の文章も簡単に思えました。英語は最も弱い科目でしたが、それでも練習量でカバーして文型やso ~ that …構文なども何となくは理解していました。社会は公民や時事問題には自信を持っていて地理や歴史も無難にできましたし、理科は理屈を理解したり関連づけて記憶したりで対応できていました。

 

直前期には過去問をしました。私立は何も考えずに言われるがまま洛南高校を受験したのですが、過去問には驚かされました。習っていないことがたくさん出題されていたのです。6割くらいしか解けずにへこみましたが、資料をよく読んで合格最低点という欄を見つけ、その点数は超えていたので、それで大丈夫なのではないかと考えました。合格最低点と比べるという方法は正しいと今でも信じています。

 

私立の洛南高校を実際に受験したときも全部の問題が解けたわけではなかったので気持ち悪かったですが、合格最低点のことを考えてベストを尽くし、合格できました。公立の茨木高校を受験したときは自己採点で数学が満点、その他の科目も基本満点ペースだったので、安心して合格発表を迎えました。

 

 

 



中学入学以前の学習記録

年度替わりで時間に余裕があり、家の片付けをしていたら過去を振り替えるモードになってきたので、これまでの人生の学習記録をまとめておきます。

 

まずは中学入学以前です。

 

小学校入学以前

保育園ではなく幼稚園に通っていたので、お勉強の時間も少しあったような記憶があります。それが嫌だったということはありません。絵本を読んだりするのも好きなほうでした。絵を描いたり運動をしたりするのは苦手でした。

 

これは生まれながらの性格による部分が大きいでしょう。大人しい子だとよく言われていましたし、実際家の中にいることのほうが好きでした。何か早期教育を受けたということはありませんが、「物覚えがよい」と祖父からほめられたことは今でもいい思い出です。

 

まとめると、もともと芸術や運動よりも学業に適性があったところを、そのまま素直に発揮したと言えます。

 

小学校

学校での勉強にはついていけました。といっても授業を聞いて宿題を真面目にするというだけで、特にそれ以外の勉強はしませんでした。

 

むしろ図工や給食、人間関係などのほうが苦労しました。図工の絵が苦手だったのは先ほど述べましたが、給食は決められた枠組みで食べさせられるということに反発を覚えていました。1、2年の頃は引っ込み思案で、そのせいで作文が苦手でした。それも3,4年の頃に克服したのはいいとして、その勢い余ってケンカをよくしたりしていました。

 

塾や問題集での「勉強」はしませんでしたが、身の回りの材料を使って考えるということはしていました。具体的にはパズル雑誌やファミコンです。パズル雑誌ではイラストロジックなどの論理ものを自分なりに工夫して解いていました。ファミコンはいろいろやりましたが、マージャンなどのギャンブル的なものが特に好きでした。当時流行していたドラクエ4でもカジノに入り浸っていました。

 

なんというか、ろくな小学生じゃありませんね。

 




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