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第2章 GNU 宣言

 GNU 宣言は、GNU プロジェクトの発足時に参加と支援を呼びかけるために執筆された。最初の数年間は、プロジェクトの進展に合わせて細かく更新されていたが、現在はすでにほとんどの人が見ているものなので、変更せずに残したほうがよいように思われる。その後、他の用語を使えば避けられる誤解があることを学んだので、この数年間は、それらの誤解を解くための脚注を追加してきた。

GNUとは何か、Gnu's Not Unixだ!

 GNU は、Gnu's Not Unix の略語で、使えるすべての人々にフリーで提供できるように私が開発している Unix 互換ソフトウェアシステムの名前である*1。私以外にも、数人のボランティアが私の仕事を助けてくれている。時間、資金、プログラム、機器について、多方面からの貢献をぜひともお願いしたい。

 今までの間に、Lispでエディタコマンドを記述できる Emacs テキストエディタ、ソースレベルデバッガ、yacc 互換パーサージェネレータ、リンカ、その他35種類ほどのユーティリティが完成している。シェル(コマンドインタープリタ)は、ほとんど完成している。新しい移植性の高い最適化Cコンパイラは、自身をコンパイルできており、今年中にはリリースできる。出発点となるカーネルは完成しているが、Unixをエミュレートするためにはまだ多くの機能が必要になる。カーネルとコンパイラが完成したら、プログラム開発に適したGNU システムを頒布することが可能になる。テキストフォーマッタとしてはTEXを使うつもりだが、現在は nroff を開発している。また、フリーの移植性の高い X Window System を使う予定でいる。そのあとで、ポータブルな Common Lisp、Empire ゲーム、スプレッドシート、その他多くのプログラムとオンラインドキュメントを追加する。最終的には、Unix システムが通常備えている役に立つすべての機能はもちろん、それ以上のものを提供したい。

 GNU は、Unix プログラムを実行できるものになるが、Unix と同じものではない。他のオペレーティングシステムを使った経験に基づいて、便宜性を高めるあらゆる改良を加えていくつもりである。特に、より長いファイル名、ファイルバージョン番号、クラッシュに耐えられるファイルシステム、ファイル名補完のサポートを予定しており、おそらく端末に依存しないディスプレイサポートも実現し、最終的には、複数のLisp プログラムと通常の Unix プログラムが画面を共有できる Lisp ベースのウィンドウシステムをサポートすることを検討している。システムプログラミング言語としては、CとLispの両方が使える。また、通信のために、UUCP、MIT Chaosnet、Internet プロトコルをサポートしようと考えている。

 GNUは、まず、仮想記憶をサポートする68000/16000クラスのマシンをターゲットとするが、それはこのマシンがもっともシステムを実行しやすいマシンだからである。より小さなマシンで実行できるようにするための追加作業は、そのようなマシンでGNUを使うことを望む他の方にお願いしたい。

 なお、とんでもない誤解を避けるために、このプロジェクトの名前として「GNU」という単語を使うときには、最初の「G」の部分を発音するようにしていただきたい*2

なぜ私がGNUを書かなければならないのか

 私は、自分があるプログラムを好きなら、それが好きなほかの人と共有しなければならないということを重要な原則だと考えている。ソフトウェアの商売人たちは、ソフトウェアの共有を認めないことによって、ユーザーを分断し、支配しようとしている。私は、このような方法で他のユーザーとの絆を断ち切られることを拒否する。私は、良心にかけて、NDA(情報非開示契約)やソフトウェアライセンス契約に署名することができない。私は、長年に渡り、AIラボにおいてそのような傾向やその他の妨害工作を拒否して働いてきたが、AIラボはそのような思いから遠く離れた存在になってしまった。私には、自分の意思に反してそのようなことが行われている組織に留まることはできなかった。

 不名誉なことをせずにコンピュータを使い続けるために、私は充分な量のフリーソフトウェアを集め、フリーではないソフトウェアを使わずに過ごせるような環境を作ることにした。そして、私がGNUを放棄せざるを得なくなるような法的根拠を MIT に与えないために、AIラボを辞職した。

なぜGNUは Unix 互換か

 Unix は私の理想のシステムではないが、それほど悪いものでもない。Unixの基本機能は優れたものだと思っており、私はそれらを損なわずに Unix に欠けているものを補うことができると思っている。また、Unix 互換システムは便利なので、他の多くの人々が採用しやすいはずだ。

GNUはどんな条件で頒布されるか

 GNU はパブリックドメインではない。GNUを書き換え、再頒布することはすべての人に認められるが、頒布者がそれ以上の再頒布を制限することは禁止される。つまり、変更版の私有化は禁止されるということである。私は、GNU のすべてのバージョンを確実にフリーにしたいと考えている。

他の多くのプログラマが支援を申し出るのはなぜか

 私は、GNUに目を輝かせ、支援を申し出る他の多くのプログラマに出会った。

 多くのプログラマは、システムソフトウェアの商業主義に不満を感じている。商業主義は彼らにより多くの儲けを与えるかもしれないが、他のプログラマ一般を仲間というよりも敵ととらえることを強いる。プログラマの友情を成立させるための基本行動は、プログラムを共有することだが、現在の販売メカニズムは、一般に、プログラマがほかのプログラマを友として扱うことを禁止するように働いている。ソフトウェアの購入者は、友情と法の遵守の二者択一を迫られる。友情のほうが大切だと考える人が多いのは当然である。しかし、法を尊重する人間は、どちらを選んでも落ち着かない気持ちにさせられることが多い。彼らはひねくれて、プログラミングは単なる金儲けの手段だと考えるようになる。

 私有プログラムではなく、GNUを開発、利用すれば、すべての人に対する友情を保った上で、法に従うこともできる。GNUは、ほかのプログラマを刺激し、共有の輪につないでいくための旗印を作る格好の例を提供する。GNUは、フリーではないソフトウェアを使うときには絶対に得られない調和の感覚を与えてくれる。私が話をしたプログラマの約半分にとって、これはお金に換えられない大切な幸福である。

どうしたらGNUに貢献できるか

 私は、コンピュータメーカーに対して、マシンと資金の寄付を呼びかけている。また、個人に対して、プログラムと作業の寄付を呼びかけている。

 マシンを寄付したときに期待できる効果の1つは、比較的早い時期にそのマシンで GNU が動作するようになるということである。ただし、そのマシンは完全ですぐに使えるシステムになっており、住宅地で使うことが認められていて、大規模な冷却やパワーを必要としないものでなければならない。

 GNU の作業のためにパートタイムで寄与することを望んでいるプログラマは非常にたくさん見つかった。ほとんどのプロジェクトでは、そのようなパートタイムでの分散作業は、非常に調整困難なものになるだろう。独立に開発された部品は、うまくフィットしないものである。しかし、Unixに代わるシステムを作るというこの特定の仕事では、そのような問題はない。完全な Unix システムには数百種のユーティリティプログラムが含まれており、それぞれは別個にドキュメントされている。ほとんどのインターフェイス仕様は、Unix 互換ということによって固定されている。個々のボランティアが特定の Unix ユーティリティの互換プログラムを書き、Unixシステムでオリジナルの代わりに正しく動作させられれば、それらのユーティリティは完成時にも正しく動作する。マーフィー*3が予期せぬ問題を持ち出してくるのを認めたとしても、それらのコンポーネントの結合は実現可能な仕事である(カーネルの開発には密接なコミュニケーションが必要なので、小規模でタイトなグループが従事することになるだろう)。

 資金という形の寄付を受け取ったときには、フルタイムまたはパートタイムで働く人を雇うことができる。彼らの給与はプログラマの標準からすれば高いものにはならないが、私は、コミュニティ精神の構築がお金を稼ぐことに劣らず大切なことだと思っている人々を探している。この形での貢献は、生計を立てるために別の仕事をする必要がなく、GNU の仕事に全精力を掛けられる専従職員の実現につながるはずだ。

GNUがすべてのコンピュータユーザーの利益になるのはなぜか

 GNU が完成したら、すべての人が空気と同じように優れたシステムソフトウェアをフリー*4で手に入れられるようになる。

 このことは、すべての人が Unix のライセンス料を節約できるというよりもはるかに大きな意味を持っている。それは、システムプログラミングの無駄な重複を避けられるということである。その分、技術の最先端の開拓に労力を掛けられるのだ。

 完全なシステムソースコードがすべての人に公開される。そのため、システムに変更を加えたいユーザーは、いつでも自由に変更を加えることができる。あるいは、他のプログラマや企業にお金を払って変更を加えてもらうことができる。ユーザーは、ソースコードを所有し、変更を加えるための権利を独占している個人プログラマや企業の言いなりにならなくて済むようになるのだ。

 学校は、すべての学生にシステムコードを研究、改良することを勧めることによって、はるかに優れた教育環境を提供できるようになるだろう。ハーバード大学のコンピュータ研究所は、かつてソースが公開されていないプログラムをシステムにインストールしないことを方針としており、実際にいくつかのプログラムのインストールを拒んだことがあった。私は、このことに非常に大きな刺激を受けた。

 最後に、システムソフトウェアを所有するのが誰で、所有権の対象になっているのがどの部分までなのかということを考える手間がなくなる。

 コピーライセンスを含め、プログラムの使用に対して料金を要求する契約は、個人がどの程度(つまり、どのプログラムに) 料金を払わなければならないかを明確にするために必要な煩雑な手続きのために、社会に莫大なコストを押し付けることになる。そして、全構成員にその遵守を強制できるのは、警察国家だけだ。高いコストをかけて空気を製造しなければならない宇宙ステーションについて考えてみよう。1リットル単位で呼吸に課金するのは公正かもしれないが、たとえ、すべての人に空気使用料を支払う余裕があったとしても、昼も夜もメーター付きのガスマスクをつけて暮らすことは、耐えられないことだろう。さらに、そのマスクを取り外すような人間がいないかどうかをテレビカメラで監視するに至っては論外である。マスクなどは捨てて、人頭税で空気プラントを運営したほうがよほどましである。

 プログラマにとって、プログラムの全部または一部をコピーするのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことであり、生産的なことである。コピーは自由でなければならない。

GNUの目標に対する簡単に反論できる異論

 「フリーだということは、サポートを期待できないということだから、誰もそんなものは使わないだろう」

 「サポートを提供するための資金を得るために、プログラムを有料にしなければならない」

 人々が、サービスなしのGNU を無料で入手することよりも、GNUとサービスの組み合わせに料金を払うことを選ぶのだとすれば、GNUを無料で入手した人々に対してサービスだけを提供する企業は収益を上げられるはずである。

 私たちは、実際のプログラミングの仕事という形を取るサポートと単なるアフターケアとを区別しなければならない。前者は、ソフトウェアベンダーからは期待できないものである。ある問題が多くの人々によって共有されていなければ、ベンダーはその問題を抱える人に対して諦めろと言うだろう。

 サポートを受けられる体制が必要なら、必要なソースとツールをすべて揃える以外の方法はない。そうすれば、問題を解決できる人物を雇うことができる。特定の個人に振り回されることはなくなる。Unix の場合、ソースが高価なために、ほとんどの企業にとってそのようなことを検討する余地はない。GNUなら、それは簡単である。それでも、有能な人物がいないという可能性はあるが、そのような問題は、頒布条件を非難する理由にはならないだろう。GNUは、世界のすべての問題を消滅させるわけではない。そのうちのいくつかを消そうとしているのである。

 一方で、コンピュータについての知識を一切持たないユーザーは、自分でも簡単にできることだが、やり方がわからないのでできないことについて、アフターケアを必要とする。

 そのようなサービスは、アフターケアと修理のサービスを販売する企業によって提供することができるだろう。ユーザーがお金を払ってサービス付きの製品を手に入れるほうがよいと思っているということが事実であれば、無料で入手した製品のためのサービスも喜んで買うだろう。そのようなサービス会社は、品質と価格で競争することになる。ユーザーは、特定の企業に縛られない。そして、サービスを必要としないユーザーは、サービスにお金を使わずにプログラムを使うことができなければならないだろう。

 「宣伝なしで多くのユーザーを掴むことはできないので、そのためにプログラムを有料にしなければならない」

 「無料で入手できるプログラムを宣伝してもしょうがない」

 コンピュータユーザーにGNUのような存在を知らせるために無料または非常に安いコストで使える媒体には、さまざまな形のものがある。しかし、宣伝を打てば、より多くのマイクロコンピュータユーザーを動かせることは、事実かもしれない。もしそうだとすれば、有料でGNUをコピー、郵送するサービスを提供すると宣伝する企業は、宣伝料以上の収益を上げられるくらいに成功するだろう。だとすれば、宣伝から利益を得ているユーザーだけがそのサービスに料金を支払うことになるだろう。

 一方、多くの人々が友人からGNUを入手し、そのような企業が成功しないとすれば、GNUの普及のために本当は宣伝など必要なかったのだということになる。自由市場の推進者が自由市場に判断を委ねたがらないのはなぜだろうか*5

 「私の会社は、競争力を確保するために、私有オペレーティングシステムを必要とする」

 GNU は、オペレーティングシステムソフトウェアを競争の分野から取り除くだろう。この分野でライバルを出し抜くことはできないが、ライバルがこの分野であなたを出し抜くこともできない。あなたとライバルは、この領域では相互に協力しながら、他の分野でしのぎを削ることになる。オペレーティングシステムの販売を業務とする人からすれば、GNUは好ましくない存在だろうが、これはやむを得ないことである。他のことを業務とする人にとっては、GNU はオペレーティングシステム販売という高価な業務に首を突っ込まなくて済むようにしてくれるありがたい存在である。

 私は、GNUの開発が多くのメーカーやユーザーからの献金によって支えられ、互いのコストを下げるようになることを期待している*6

 「プログラマの創造は、報酬に値しないのか」

 報酬に値するものがあるとすれば、それは社会的な貢献である。創造は社会的貢献になり得るが、それは、社会が創造の結果を自由に利用できる限りにおいてである。プログラマが革新的なプログラムを作ることが報酬を受けるに値することなら、同じ理由で、それらのプログラムの利用を制限することは懲罰を受けるに値する。

 「プログラマは、創造に対して報酬を要求してはならないのか」

 破壊的な手段を使わない限り、仕事に対して報酬を求めることや収入を増やそうとすることは決して悪いことではない。しかし、現在のソフトウェア業界の慣行は、破壊を基礎に置いている。

 プログラムの利用を制限することによってプログラムのユーザーから料金を徴収することは、破壊的である。その制限によって、プログラムが利用される回数や形態は少なくなってしまうだろう。これは、人類がプログラムから得る利益を小さくする。制限することが意図的な選択であれば、制限がもたらす有害な結果は意図的な破壊である。

 よき市民たちがそのような破壊的な手段を使わないのは、誰もがそのようなことをすれば、相互破壊によって全員がより貧しくなってしまうからである。これはカントの倫理学であり、黄金律である。私は、すべての人が情報を死蔵したらどのような結果がもたらされるかがわかるため、誰かがそのようなことをすれば悪いと考えざるを得ない。具体的に言えば、創造に報いてほしいという気持ちは、世界一般から創造性の全部または一部を奪う理由にはならない。

 「プログラマは餓えてしまうのではないか」

 この問いには、プログラマになることを強制される人などないという答え方があるかもしれない。私たちの大半は、街頭に立っておかしな顔をするだけでは金を稼ぐことはできない。しかし、だからと言って、街頭でおかしな顔をしていて餓えるような人生を強制されることはない。何か他のことをするまでである。

 しかし、この応え方には、質問者の暗黙の前提を受け入れているという点で問題がある。その前提とは、ソフトウェアの所有権がなければ、プログラマは1セントも報酬を得ることができないだろうというものである。オールオアナッシングの考え方である。

 プログラマが餓えない本当の理由は、それでもプログラミングによって報酬を得ることは可能だからである。単に、今ほど高い報酬が得られなくなるだけである。

 コピーの制限は、ソフトウェアビジネスの唯一の基礎ではないが、ソフトウェアが儲かる最大の理由である。コピーの制限が禁止されたり、顧客たちから拒否されたりすれば、ソフトウェアビジネスは、現在はまだあまり見られない組織形態に移っていくだろう。どのようなビジネスにも、組織形態はいつでも無数にある。

 おそらく、新しい基礎に移れば、プログラミングは現在ほど儲かる仕事にはならないだろう。しかし、これは変更に反対する議論ではない。営業員が現在の方法で給与を受けることは、正義にもとるものとはみなされない。プログラマも同じようにすれば、不正だとはみなされなくなるだろう(実際には、プログラマはそれでも営業員よりもかなり儲かる仕事であり続けるだろう)。

 「人間には、自らの創造がどのように使われるかをコントロールする権利があるのではないか」

 「発想の使い道をコントロールする」ということは、他の人々の生活をコントロールすることであり、通常、それらの人々をより暮らしにくくするために使われる。

 知的財産権の問題をじっくりと研究した人々(たとえば、法律家)は、知的財産に固有の権利は存在しないと言っている。政府が容認しているようなタイプの知的財産権は、特定の目的のために特別の法律によって作られたものである。

 たとえば、特許制度は、発明者がそれぞれの発明の詳細を公開することを促すために設けられた。その目的は、発明者ではなく、社会を助けることにあったのだ。その当時、特許の17年という有効期限は、技術の最先端の進歩と比べて短いものだった。特許は製造業者の間だけの問題であり、それらの企業にとって、ライセンス契約にかかる費用や労力は生産体制を整えることと比べれば少額だったので、特許が大きな害になることはあまりなかった。特許を受けた製品を使うほとんどの個人にとって、特許が障害になることはなかった。

 著作権の考え方は、古代には存在しなかった。当時の著者は、ノンフィクションの分野では、他の著者がいたものをひんぱんにかなりの長さでコピーしていた。この習慣は役に立っており、多くの著者の作品がたとえ部分的にであっても生き残るための唯一の方法だった。著作権制度は、創作意欲を促すという目的をはっきりと示して作られたものである。著作権制度が作られた対象となった領域(印刷機だけで経済的にコピーを作れる書籍という領域)では、著作権制度はほとんど害をもたらさず、本を読むほとんどの個人の障害にはならなかった。

 知的財産権は、それを認めることによって社会全体が利益を得ると社会が考えたために(その考えが正しかったかどうかは別として)認められたライセンス(免許、鑑札)に過ぎない。しかし、個々の状況について、私たちは問わなければならない。私たちは、そのようなライセンスを認めることによって本当により良くなるのだろうか。私たちは、個人にどのような行為を認めようとしているのだろうか。

 今日のプログラムは、百年前の書籍とは事情が大きく異なる。プログラムをコピーするもっとも簡単な方法は、隣人から隣人に伝えていくことだという事実、プログラムが別個の存在であるソースコードとオブジェクトコードの両方を持つという事実、プログラムが読んで楽しむためにではなく、使われるものであるという事実がある。これらの事実を結合すると、著作権を強制する人物が、物心両面で全体としての社会に害を流すという状況が生まれる。法律が認めているかどうかにかかわらず、人はそのようなことをしてはならない。

 「競争は、進歩を生む」

 競争のパラダイムは、かけっこである。勝者を褒め称えることによって、誰もがより速く走ることを奨励する。本当にそのように機能しているときの資本主義は、良い仕事をしている。しかし、資本主義の擁護者は、資本主義がいつもそのように機能していることを当然と考えているというところで誤っている。勝者がなぜ褒め称えられるかを忘れ、手段を選ばず勝つことにだけ夢中になれば、他のランナーへの攻撃などの新戦略に出るかもしれない。ランナーが互いに殴り合っていたら、彼ら全員のタイムが下がるだろう。

 秘密の私有ソフトウェアは、モラルとしては、殴り合うランナーと同じである。悲しいことに、私たちの唯一の審判は、このような争いに反対していないようだ。彼は、争いを規制するのみである(「10ヤード走るごとに、1発撃ってよい」)。彼は殴り合いを止めさせ、殴り合おうとしただけでもランナーを懲罰すべきだったのである。

 「金が儲かるという動機がなければ、誰もプログラミングしなくなるのではないか」

 実際には、金儲けの動機がまったくなくても、多くの人々がプログラムを書く。プログラミングは抑えがたい魅力だと感じる人々が一部にはおり、通常それはもっともプログラミングに優れている人々である。音楽で食べていく望みがまったくなかったとしても、音楽を止めないプロのミュージシャンが足りなくなることはない。

 しかし、この問いは、よく尋ねられる質問ではあるが、そもそも前提が間違っているのである。プログラマに対する報酬は、減りはしても、決してなくならない。正しい問いは、あまり儲からなくなってもプログラムを書く人間はいるだろうか、とすべきである。そして、私の経験から言えば、間違いなくいる。

 世界でもっとも優れたプログラマの多くは、10年以上もの長きにわたって AIラボに集まっていたが、他の職場にいればずっと多くの金額を得ていたはずである。彼らは、名声や評価など、金とは別の種類のさまざまな報酬を得ていた。そして、創造は面白く、それ自身が報酬なのである。

 その後、彼らの大半は、もっと多くの金で同じ面白い仕事をするチャンスを与えられて、AIラボを去っていった。

 この事実は、人は豊かさ以外の理由でプログラムを書くことがあることを示すが、しかし、もっとも豊かになるチャンスが与えられると、豊かになることを望み、要求するようになるということを示している。給与の安い組織は、給与の高い組織との競争では不利である。しかし、給与の高い組織が社会の反発を受けていれば、不利な競争をする必要はなくなる。

 「私たちには、どうしてもプログラマが必要である。プログラマが隣人との協力を拒めと言うなら、私たちは彼らに従わざるを得ない」

 このような要求に従わなければならないほど、プログラマを必要とすることなど決してない。「守りに何百万ドルかけても、1セントたりとも貢ぐな」*7である。

 「プログラマは、何らかの方法で生計を立てなくてはならない」

 短期的には、これは正しい。しかし、プログラマは、プログラムの使用権を売らなくても、さまざまな方法で生計を立てられる。使用権の販売という方法は、生計を立てる唯一の方法だからではなく、プログラマとビジネスマンにもっとも多くの金をもたらす方法だから、現在の習慣になっているだけである。見つける気になれば、他の方法は簡単に見つかる。たとえば、次のようなものが考えられるだろう。

 ソフトウェア税を設ければ、あらゆる種類の開発のために資金を調達できる。

 すると、次のような結果になるだろう。

 長期的には、プログラムをフリーとすることは、飢餓のない世界、つまりすべての人がただ生活するだけのために必死に働かなくても済む世界に向かっての一歩になるだろう。人々は、立法業務、家族カウンセリング、ロボットの修理、小惑星の調査などの1週間に10時間の義務労働をこなしたら、プログラミングなどの面白い活動に自由に従事できる。プログラミングから生活の資を得られなければ困るようなことはなくなるのだ。

 私たちは、社会全体が実際の生産のためにしなければならない仕事の量をすでに大幅に削減してきたが、その大半は労働者の楽しみには還元されていない。生産的な活動を行うためには、大量の非生産的な活動が必要とされるからだが、そうなってしまう主な原因は、官僚主義と無駄な競争にある。フリーソフトウェアは、ソフトウェア製作の分野で、このような活力の浪費を大幅に削減するだろう。技術が生産性の向上のために獲得したものが労働時間の現象に還元されるようにするためには、フリーソフトウェアを実現しなければならないのである。


  1. ^ この用語は軽率だった。GNU システムを使うための許可を得るためにかかる費用はないというつもりだったが、ここに書いた文章はそのことを明確にしておらず、GNU のコピーは無料あるいはわずかな料金で頒布しなければならないと言っているように誤解されることが多かったが、そういうつもりではなかった。ちなみに、「宣言」は、あとの部分で、営利のために頒布サービスを提供する企業の可能性について言及している。今の私は、自由という意味での「フリー」と無料という意味での「フリー」を区別するために注意を払わなければならないということを学んでいる。フリーソフトウェアとは、ユーザーが頒布と変更の自由を持つソフトウェアである。ユーザーは、コピーを無料で入手する場合と有料で入手する場合がある。そして、資金がソフトウェアの改良を助けるなら、それはとても良いことである。重要なことは、コピーを持つすべての人々が同様の他の人々と協力する自由を持っているということである。
  2. ^ 【訳注】動物のほうのgnuは、「ヌー」と発音する。
  3. ^ この部分は、悪いことが起きる可能性があるときには、その悪いことは必ず起きるとするユーモラスな法則、マーフィーの法則を指している。
  4. ^ ここも、「フリー」の2つの意味の区別ということでは軽率だった。この文自体は、問違いではない。友人や Internet から、GNUソフトウェアのコピーを無料で入手することはできる。しかし、この文は誤解を招きかねない。
  5. ^ FSFは企業ではなく、慈善団体だが、その資金の大半を頒布サービスから得ている。FSFに発注してコピーを得る人がまったくいなくなれば、FSFは活動することができなくなるだろう。しかし、だからといって、すべてのユーザーに料金の支払いを強制する私有物としての制限を設けることは正当化されない。すべてのユーザーの中の一部がFSFにコピーを発注すれば、FSFの活動は続けられる。だから、私たちはこのような形での支援をユーザーにお願いしている。あなたは、ご自分の役割を果たされただろうか。
  6. ^ 最近、コンピュータメーカー数社のグループが、GNUCコンパイラのメンテナンスを支援するための基金を設立した。
  7. ^ 【訳注】建国直後、1800年前後のアメリカで浸透していたスローガン。当時多くのアメリカ船が北アフリカで海賊の被害にあっており、海軍力増強が叫ばれた。
  8. ^ 【訳注】 National Science Foundation(米国国立科学財団)の略。

初出:第1稿は1984年に執筆。このバージョンは、"Free Software, FreeSociety: Selected Essays of Richard M. Stallman", 2002, GNU Press(http://www.gnupress.org/); ISBN 1-882114-98-1の一部である。本文に一切の変更を加えず、この著作権表示を残す限り、この文章全体のいかなる媒体における複製および頒布も許可する。

本文に一切の変更を加えず、この著作権表示を残す限り、この文章全体のいかなる媒体における複製および頒布も許可する。


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Translation Copyright© 2003 by ASCII Corporation.

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