デビッド・ソバーン(司会者): 今日の講演者であるリチャード・ストールマン氏は、コンピューティングの世界では伝説的な人物であり、私にとっては、彼と同じ演壇に立つ回答者を探すだけでも非常にいい経験になりました。MITのある著名な教授は、旧約聖書の預言者を引き合いに出して、ストールマン氏はカリスマ的人物として理解する必要があると言いました。「モーゼやエレミヤを想像するとよい。どちらかというとエレミヤだな」 私は答えました。「それはすごい賞賛ですね。すばらしいことです。世界に対する彼の貢献について私が感じていることにもぴったり合います。では、なぜ彼と同じ演壇に立とうとなさらないのですか」
彼の答えはこうです。「単純に、エレミヤやモーゼと同様に、彼は私よりも圧倒的に優れているからだ。彼と同じ演壇に立つつもりはないが、すべての人々のために真の意味で貢献した世界中の5人の現存する人物を挙げよと言われたら、リチャード・ストールマンは間違いなくその中に含まれる」
まず、問題をはっきりさせるために、このフォーラムのWeb 中継を拒否した理由から説明しなければならないでしょう。主催者がWeb 中継に使っているソフトウェアは、中継を見るために特定のソフトウェアをダウンロードすることをユーザーに要求しますが、このソフトウェアはフリーソフトウェアではありません。無料ですが、不可解な数値の束である実行可能形式しかないのです。
ソフトウェアが行っていることは秘密です。このソフトウェアは、研究、変更することができませんし、当然ながら修正を加えた独自バージョンを公開することもできません。そして、これらは、「フリーソフトウェア」の定義の中で本質的な意味を持つ自由の一部です。
そこで、もし私がフリーソフトウェアの誠実な擁護者であるなら、このような講演をする一方で、人々にフリーではないソフトウェアを使えと圧力をかけるわけにはいきません。それでは、自分自身の主張を掘り崩すことになってしまいます。自分の主張を真剣に扱っていないことを示すなら、他人にその主張を真剣に考えてもらうことはできないでしょう。
しかし、この講演はフリーソフトウェアについてのものではありません。何年間かフリーソフトウェア運動に携わり、人々がGNUオペレーティングシステムを一部でも使うようになってから、私はこのような講演を行うように誘われるようになりました。そして、「ソフトウェアユーザーの自由という思想は、他の分野にも一般化できるものなのでしょうか」と尋ねられるようになりました。
もちろん、「ハードウェアはフリーであるべきでしょうか」とか、「このマイクはフリーであるべきでしょうか」というような馬鹿げた質問を受けることもあります。
この質問は一体どういう意味なのでしょうか。このマイクを自由にコピー、変更できなければならない? 変更ということについて言えば、あなたがマイクを買ったら、あなたがそれを改造することを誰も止められません。コピーということについて言えば、マイクのコピー機を持っている人はいません。スタートレックの外の世界には、そんなものは存在しないのです。ひょっとすると、いずれ微小工学分析機と組立機が作られ、物体のコピーを作ることが本当に可能になるかもしれません。すると、自由にそれをできるかどうかが本当に重要な問題になり始めるかもしれません。そのような技術的能力が存在するようになれば、農業関連産業が食料のコピーを作成しようとする人々を妨害しようとして、それが大きな政治問題になるかもしれません。しかし、私には、どうなるかはわかりません。現時点では、空想の世界です。
しかし、他の種類の情報についてはこの問題が起きる可能性があります。コンピュータに格納できるあらゆる種類の情報は、コピー、変更できるからです。そのため、フリーソフトウェアの倫理的な問題や、ソフトウェアをコピー、変更できるユーザーの権利の問題は、他の種類の公開された情報についてのそれらの問題と同じです。ここで、プライベートな情報、たとえば個人情報は扱わないことにします。これらの情報は、決して公開されるべきものではありません。私が取り上げるのは、秘密を保つ意図のない公開された情報のコピーを取得したときに、人が持つべき権利についての問題です。
このテーマについての私の考えを説明する前に、情報の頒布と著作権の歴史をおさらいしておきたいと思います。古代の世界では、書籍はペンで手によって書かれていました。そして、読み書きを知っている人間は、他の人々と同じくらい効率的に本のコピー (写本)を作ることができました。一日中同じことをしていれば少しはうまくなるかもしれませんが、大差はありません。同時に作れるコピーは1冊だけで、規模の経済性というものはありません。10冊のコピーを作るためには、1冊のコピーを作る時間の10倍の時間がかかります。また、中央集権を強制するものもありませんでした。本はどこでもコピーできたのです。
このような技術的理由から、またコピーが必ずしも同じにはならないということから、古代の世界では、本を写すことと本を渉くことに現在と同様のはっきりとした境界線はありませんでした。両者の間にも意味のあるものが存在していました。古代人も、作者という観念は知っていました。たとえば、この劇がソフォクレスによって書かれたものであることはわかっていました。しかし、本を書くことと本をコピーすることの中間にも、意味のある仕事がほかにありました。たとえば、本の一部だけをコピーしてから、新しい言葉を書き足し、さらにコピーを続けて、また新たな言葉を書き足すというようなことができました。これは「注釈(コンメンタール)を書く」と呼ばれる作業です。そして、これらの注釈は高く評価されていました。
また、1冊の本から一節をコピーし、別の言葉を書いてから、別の本の一節をコピーし、さらに言葉を書き足すこともできました。これは、要約集を作るという作業で、やはり有益な仕事でした。作品の中にはそれ自体としては失われてしまったものの、オリジナルよりも人気を集めた他の本に引用されることによって、部分的に生き残ったものがあります。おそらく、もっとも面白い部分がコピーされたのでしょう。人々はこのようなコピーを無数に作っていましたが、それほど面白くないオリジナルをいちいちコピーしたりはしませんでした。
私が知る限り、古代の世界には、著作権のようなものはありませんでした。本をコピーしたい人は、誰でも本をコピーすることができました。その後、印刷機が開発され、本は印刷機によってコピーされるようになりました。現在、印刷機は、コピーをしやすくした量的な改善以上の意味を持っています。印刷機は規模の経済性を導入したので、コピーのさまざまな方法に一様でない影響を与えました。活字をセットするのは大変な労力でしたが、ページのまったく同じコピーを大量に作るのはずっと楽でした。そのため、本のコピーを作る仕事は、中央集権化された大量生産行為になったわけです。特定の本のコピーは、おそらくごくわずかの場所で作られるようになりました。
印刷機の登場は、通常の読者が効率的に本のコピーを作れなくなったということでもありました。印刷機がなければ、効率的にコピーを作ることはできません。そのため、本のコピーの作成は、産業になりました。
しかし、印刷機が登場してから数世紀の間は、印刷本は写本を完全に駆逐したわけではありませんでした。写本は、金持ちによって、あるいは貧乏人によって、依然として作られていました。金持ちは、自分がいかに金持ちかを誇示する非常に美しいコピーを得るために手写本を作り、貧乏人は印刷されたコピーを買うだけのお金はないものの、手で本を書き写す時間はあるために手写本を作りました。歌にもあるように、「持っているのが時間だけなら、時は金なりとは言わないものさ」
そこで、ある程度までは、書写の仕事も行われていました。印刷のコストが充分安くなり、貧乏人でも文字が読めれば印刷された本を手に入れられるようになったのは、1800年頃ではないかと思います。
著作権は、印刷機とともに生まれ、成長しました。そして、印刷機という技術の性格上、著作権は産業に対する規制という効果を持ちました。著作権は、読者ができることに対しては制限を加えませんでした。著作権が制限したのは、出版社と著作者ができる行為です。イギリスにおける著作権は、最初は一種の検閲でした。本を出版するためには、政府の許可を得なければなりませんでした。しかし、考え方は変わってきました。合衆国憲法が制定される頃には、人々は著作権の目的として別のことを考えていました。そして、同じ考えがイギリスでも受け入れられたのだと思います。
合衆国憲法の策定過程では、著書のコピーを独占的に作成する権利である著作権を著作者に与えるべきだと提案されましたが、この提案は却下されました。代わりに、まったく異なる提案が採用されたのです。それは、進歩を促進するために、国会はこのような独占権を生み出す著作権制度を確立する選択肢を持つというものでした。ですから、合衆国憲法に従えば、このような独占権は、権利所有者のために存在するわけではありません。科学の進歩を促進するために存在するのです。著作者に独占権を与えるのは、一般人のために奉仕するように著作者の行動を変える手段なのです。
目的は、他の人々が読める本がより多く書かれ、出版されるようにすることです。この制度[著作権]は、著作活動の活性化に貢献し、科学やその他の分野の著作を増やして、社会に学習の機会を与えるはずだと考えられています。著作権が奉仕すべき目的は、ここにあるのです。個人的な独占権の創設は、目的のための手段に過ぎず、その目的とは一般国民にあります。
印刷機時代の著作権は、産業規制でしたので、苦痛を生むようなものではありませんでした。著作権が制限していたのは、出版社と著作者の活動だけでした。厳密に言えば、手作業で写本を作っていた貧乏人も、著作権を侵害していたと言えるかもしれません。しかし、著作権は産業規制と理解されていましたので、彼らに対して著作権を強制しようとする人はいませんでした*1。
印刷機時代の著作権は、出版社が存在する場所に限って実施すればよく、出版社はその性質上どこに存在するかが明らかですから、非常に簡単に実施できました。本を売ろうとするなら、どこに行けば買えるかを人々に知らせなければなりません。すべての人の家に押しかけて、著作権を強制する必要はなかったのです。
著作権は、その文脈のもとでは有益な制度になっていたかもしれません。アメリカの著作権は、法学者からは取引、すなわち国民の著作者に対する廉売と考えられています。国民は、コピーを作るという自然権の一部を売り渡し、その見返りとしてより多くの本が執筆、交換されるという利益を受け取るのです。
では、これは有利な取引でしょうか。印刷機以外ではコピーを効率的に作成できず、印刷機の所有者が限られていたために、一般人がコピーを作れなかった時代には、国民は行使できない、実際的な価値のない自由を売り渡していただけです。生きていることの副産物として役に立たないものを手に入れたとき、それを価値のあるものと交換できるなら、得をしたと言うことができるでしょう。当時の国民にとって、著作権が有利な取引だったのはそのためです。
しかし、文脈は変わり、著作権の倫理的な評価も変わらざるを得なくなりました。しかし、倫理の基本原則は技術の進歩によって変わるようなものではありません。それは非常に根の深いものであり、技術の進歩というような偶然によって変わるようなものではないのです。しかし、私たちが特定の問題に対して下す判断は、どのような選択肢があるかによって決まってしまいますし、選択肢は文脈の変化によって変わります。著作権法の分野で現在起きていることは、印刷機が次第にコンピュータネットワークにその座を明け渡し、自らの時代を終えようとしているということです。
コンピュータネットワークとデジタル情報テクノロジーは、情報を読み、利用できる人間なら誰もがコピーでき、コピーの難度が誰にとっても同じだった古代と同じような世界に私たちを連れ戻そうとしています。しかも、それらは完全なコピーであり、今までに作成できたどのコピーにも匹敵する品質を持っています。そのため、印刷機や類似のテクノロジーが導入した中央集権化と規模の経済性の時代は、終わろうとしているのです。
このような文脈の変化は、著作権法の作用の仕方も変えました。現在の著作権法は、産業規制ではありません。一般人に対する苛酷な規制になっています。以前の著作権は、作者のために出版社に課せられた制約でした。現在は、実質的に、出版社のための国民に課せられた制約になっています。以前の著作権は苦痛にならないもので、論争の種にはなりませんでした。著作権が一般人の足枷になることはありませんでした。今[現在] は違います。出版社にとって優先順位のもっとも高い仕事は、コンピュータを持っている一般人に規制をかけることです。以前の著作権は、居場所が簡単にわかり、何を出版しているかが簡単にわかる出版社だけを対象とした規制でしたから、簡単に実施できました。現在は、著作権を守らせるためには、監視、強制、厳罰が必要です。そして、私たちは米国を始めとする各国でこれらの内容が立法化されるのを見ています。
以前の著作権は、国民にとって、行使できない自由を取引するものであり、有利な取引でした。しかし、現在の国民は、これらの自由を行使できます。役に立たず、売りに出す習慣になっていた人生の副産物が、突然役に立つものになったらどうするでしょうか。実際に、消費したり利用したりすることができるようになったのです。そういうものを全部売りに出したりはしないでしょう。一部は手元に残すはずです。そして、一般人が自然に望むことはこれなのです。自分の希望を声にする機会があったとして、一般人が当然行うのは、このようにこの自由の一部を手元に残して行使することでしょう。Napsterは、このことをよく示す大きな例です。一般人はコピーする自由を放棄せず、行使することを選んだのです。今日の環境に合わせて私たちが著作権法を自然な形に改正するとすれば、著作権者が持つ権力を削減することです。著作権者が一般人に対して課している制約を削減し、一般人の当然の自由を拡大することです。
しかし、出版社はそのようなことを望んでいません。出版社が望んでいるのは、正反対のことです。出版社は、情報のあらゆる利用をしっかりとコントロールできるところまで著作権者の権力を高めることを望んでいます。そして、この圧力は、著作権者にいまだかつてない高い権力を与えるところまで、著作権法を変えてきました。印刷機の時代に一般人が持っていた自由が今や奪い去られようとしています。
たとえば、e-book を見てみましょう。e-bookには、非常に大がかりな誇大広告があり、ほとんど騙されないではいられないほどになっています。私が飛行機でブラジルに行ったときに機内で読んだ雑誌には、10年から20年でe-bookへの完全な移行が完了するだろうとする記事が掲載されていました。この種のキャンペーンは、明らかに、e-book に投資している人々が流しているものです。彼らはなぜそのようなことをするのでしょうか。たぶん、e-bookは、印刷された本の読者が常に持っていて、今でもまだ失われていない自由を奪い去るチャンスなのです。たとえば、友人に本を貸す自由、公共図書館から借りてくる自由、コピーを古本屋に売る自由、誰がどの本を買ったかを管理するデータベースに記録を残さずに匿名でコピーを買う自由です。あるいは、本を2度読む自由も含まれるかもしれません。
これらは出版社が奪いたいと思っている自由ですが、印刷された本の場合、紙を奪うのではあからさまに過ぎて大騒ぎになるので手を出すことができません。そこで、出版社は間接的な戦略を見つけたのです。まず、e-book が存在しない時代に e-book からこれらの自由を取り除く法制を手に入れ、論争を封じ込めます。自らの自由に慣れ、それを守ろうとする e-book の既存のユーザーはいません。出版社が1998年のデジタルミレニアム著作権法(DMCA)で手に入れたのは、それです。次に、出版社はe-book を導入し、人々を次第に印刷された本からe-book に移行させます。結果として、読者はこれらの自由が取り除かれた瞬間、自由を取り戻すために闘う瞬間を持たずに、これらの自由を失ってしまうのです。
同時に、他のメディアからユーザーの自由を奪う動きも顕在化しています。たとえば、DVD化された映画は、以前は秘密だった(秘密になるのを意図して作られた)暗号化されたフォーマットで発売され、プレーヤーにある制限を組み込む契約にユーザーがサインしない限り、映画会社はそのフォーマットについての情報を与えず、ユーザーはDVDを再生できません。国民は、それぞれの法的権利を完全に行使することさえ禁止されてしまうのです。その後、ヨーロッパの数人のプログラマがDVDのフォーマットを明らかにし、DVDを読み出すフリーソフトウェアパッケージを書きました*2。これで、GNU/Linux オペレーティングシステムの上では、買ってきたDVDを鑑賞できるフリーソフトウェアを使えるようになったということですが、これは完全に合法的な行為です。フリーソフトウェアでこのようなことをすることは、当然認められなければならなりません。
しかし、映画会社はこの動きに反対して法廷に打って出ました。映画会社は、誰かがマッドサイエンティストに「でも博士、人類には知ってはならないことがあります」というような説教をたれる映画を無数に作ってきましたが、自分の映画を見過ぎた余り、DVDのフォーマットは人類が知ってはならないことだと思い込むようになったらしい。しかも、映画会社はDVD再生ソフトウェアを全面的に検閲できるような判決を勝ち取りました。米国外のこの種の情報が法的に認められているサイトにリンクを張ることさえ禁止されてしまったのです。この判決に対しては、控訴がなされています。法廷助言者摘要書(friend-of-the-courtbrief)の署名者の末席に私も名前を連ねているのは、誇ってよいことでしょう。もっとも、この闘いで私が果たしている役割はごく小さなものに過ぎませんが。
合衆国政府は、直接向こう側に肩入れしています。でも、DMCAがそのまま通過した理由を考えれば、これは驚くに足らないことです。それは、アメリカの政治献金制度です。候補者は、選挙の前に企業に買収され、言わば合法的に賄賂を受け取っています。もちろん、候補者は主人が誰か、誰のために働いているかを知っています。ですから、企業により強大な権力を与える法案を通過させるのです。
この個別の闘いが今後どうなるかはわかりません。その一方で、オーストラリアは同様の法律を成立させ、ヨーロッパもほとんど立法化するところまで来ています。地球上でDVDのフォーマット情報が公開されている場所がなくなるようにしようというのです。もっとも、アメリカは公開情報の頒布を国民に禁止するという分野では、依然として世界のトップを独走しています。
しかし、アメリカは情報統制を優先事項に置いた最初の国ではありません。ソ連もまた、情報統制を非常に重視しました。ソ連では、違法コピーとその頒布は地下出版と呼ばれ、その撲滅のために一連の方法が編み出されました。まず、違法コピーを阻止するために、個々のコピー装置に何がコピーされているかを監視するガードを付けました。次に、違法コピーによって逮捕された人々に厳罰を下しました。シベリア送りになったのです。第3に、隣人や同僚を情報警察に密告するよう唆しました。第4は連帯責任。「お前らは、あのグループを監視しろ。俺があの中の誰かを違法コピー実行犯として検挙したら、お前らは全員監獄行きだ。だからしっかり監視するんだぞ」 第5はプロパガンダ。子供の頃から、違法コピーなどするのは恐るべき人民の敵だけだと信じ込ませるのです。
アメリカは、今やこれらすべての方法を使うようになりつつあります。まず、コピー装置の監視ですが、コピー店には、客が何をコピーしているのかをチェックする人間の護衛がついています。しかし、コンピュータで何がコピーされているのかを人間の護衛に監視させるのでは、高くつきます。人間の労働コストは高いのです。そこで、ロボットの護衛を用意しました。DMCAの目的はこれです。このソフトウェアは、コンピュータに入り込みます。データにアクセスするにはそのソフトウェアを使うしかなく、コピーはそのソフトウェアによって禁止されます。
現在、すべてのハードディスクにこのソフトウェアを導入し、何らかのネットワークサーバからアクセス許可を得ない限り、ハードディスク上のファイルにさえアクセスできなくしようとする計画が進められています。このソフトウェアをバイパスしたり、バイパスの仕方を教えたりするだけで罪になるというのです。
第2の厳罰主義。数年前、役に立つだろうということで何かのコピーを作って友達に手渡したからといって罪に問われることはありませんでした。アメリカでそのようなことが犯罪になったことはなかったのです。しかし、今日では、これが重罪になります。隣人と共有したために何年も監獄に閉じ込められるのです。
第3の密告については、テレビやボストンの地下鉄の広告で、同僚を情報警察に密告するよう呼びかけているものがあります。情報警察の正式名称は、ソフトウェア出版協会と言います。
第4の連帯責任。アメリカでは、ISPに対して顧客がポストした情報への法的責任を負担させるという手法を取っています。クレームがついてから2週間以内に情報を切り離すか取り除く体制を取らない限り、ISPは責任を問われることを避けられません。数日前のことですが、Citibank の汚い手口を批判する抗議用サイトがこのようにして切り離されたという話を聞きました。今では、運が悪ければ裁判で争うことさえできません。単純にサイトが切り離されてしまうのです。
最後のプロパガンダは子供時代から始まっています。「海賊行為」という単語は、そのために使われているものです。数年前を振り返るなら、「海賊行為」という単語は、著作者に報酬を支払わない出版社に対して使われていました。しかし、今はまったく正反対です。出版社の支配下から逃れた一般人に対して使われているのです。禁止されているコピーを行うのは、人民の仇敵以外の何者でもないと思い込ませようというのです。これは、「隣人と情報を共有するのは、船を攻撃するのと倫理的には同じだ」と言っているのと同じです。皆さんはそうだと思わないでいただきたいし、そう思わないなら、この意味でこの言葉を使わないようにしてください。
出版社は、自らの権力を強化するために法を買収しています。また、出版社は著作権の存続期間の延長も進めています。合衆国憲法では、著作権の存続期間は限定されていなければならないとされていますが、出版社は著作権を永遠に抱え込んでいたいのです。しかし、憲法の修正は難しいので、同じ結果が得られるより簡単な方法を見つけてきました。20年ごとに著作権を遡及的に20年ずつ延長するのです。ある特定の時点を取れば、著作権は名目上ある期間で失効し、ある特定の日に消えます。しかし、すべての著作権が20年ごとに20年ずつ延長されるので、失効日は永遠にやってきません。つまり、すべての仕事が再び共有に戻ることは永遠にないのです。この方式は、「分割払い式永久著作権」と呼ばれています。
著作権を20年延長した1998年の法律は、メインスポンサーの1つがディズニーだったので、「ミッキーマウス著作権延長法*3」と言われています。ディズニーは、ミッキーマウスの著作権が切れそうなことに気づいており、その著作権から巨額の利益を得ていたので、何としても失効を避けたかったのです。
ところで、この講演のもともとのタイトルは、「著作権とグローバリゼーション」でした。グローバリゼーションとは、経済的効率性とかいわゆる自由貿易条約の名のもとに進められている政策のことですが、実際には企業の法律や政策に対する影響力を高めようという動きです。本当は、自由貿易の問題ではなく、権力の移行の問題です。それぞれの利益を追求してよいはずのすべての国の国民から立法権を奪い、それら国民の利益を考慮しない企業に権力を与えようとしているのです。
企業から見て、民主主義は問題であり、これらの条約はこの問題に止めを刺すように作られています。たとえば、NAFTA*4は、企業が外国で利益を上げるのを妨害する法律を取り除けるようにその国を告訴できるような条項を持っています。つまり、外国企業のほうが自国の国民よりも強い権力を持つのです。
これを NAFTAよりも広い範囲に拡張しようとする動きがあります。たとえば、いわゆるアメリカ自由貿易地域の目標の1つはそれで、この原則を南米、カリブ海のすべての国々に広げようというのです。さらにそれを全世界に広げる、投資に関する多国間合意の形成も計画されています。
1990年代に明るみに出た動きの1つは、この種の条約がより強力でより制限の厳しい形で世界中に著作権を押し付けようとし始めたことです。これらの条約は、自由貿易条約とはとても言えません。実際には、自由貿易を廃絶し、大企業が世界経済を支配できるようにする、企業保護貿易条約です。
アメリカは、発展途上国だった1800年代、外国の著作権を認めませんでした。これは慎重に考えられた賢明な決定でした。アメリカが外国の著作権を認めても、資金の海外流出を招く一方で、良いことはほとんどなく、単純に不利だと考えたのです。
今日の発展途上国にも同じ論理が当てはまるはずですが、アメリカはこれらの国が自らの利益に反する方向に進むよう強制するだけの強大な権力を持っています。実際、この文脈で国の利益を言うことは誤りです。ほとんどの皆さんは、一人一人の富を加算することによって国民の利益を判断するのは誤りだという話を聞いたことがあるでしょう。働くアメリカ人が10億ドルを失い、ビル・ゲイツが20億ドルを儲けたら、アメリカ人全般の生活がよくなったと言えるでしょうか。それはアメリカにとって良いことでしょうか。合計だけを見れば、良くなっているように見えます。しかし、ビル・ゲイツが本当にもう20億ドル必要としているはずはありませんし、最初からそれほど持っていなかった他の人々は、10億ドルを失ってさらに苦しくなっているはずです。ですから、合計で判断するのは誤っているということです。これらの貿易条約についての議論で、この国あの国の利益という話が飛び交っているとき、実際に議論されているのは、それぞれの国の全国民の収入の合計です。裕福な人々と貧しい人々が合計されているのです。ですから、国の利益という言葉は、実際には国の中での富の分配の効果を無視させ、条約がさらに格差を広げることを隠すためのペテンなのです。そして、アメリカで行われているのは、そういうことです。
世界中に著作権を強制することは、実際にはアメリカの利益に寄与するわけではありません。得られるのは特定の企業のオーナーたちの利益です。彼らの多くはアメリカにおり、一部は他の国にいますが、いずれにしても、一般人の利益にはなりません。
しかし、どうすればよいのでしょうか。たとえば、合衆国憲法に述べられている著作権の目標(進歩を促進するという目標)を信じるなら、コンピュータネットワーク時代の賢明な政策とはどのようなものでしょうか。当然ながら、著作権を強化するのではなく、デジタルテクノロジーやコンピュータネットワークの長所を利用できるような自由の領域を一般人のために確保するために、著作権を後退させなければなりません。しかし、どの程度後退させたらよいのでしょうか。これは面白い質問です。私だって、著作権を完全に葬り去るべきだと思っているわけではありません。確かに、従来の著作権の考え方では自由を放棄しすぎになりますが、進歩のために自由の一部を取引するという考え方は、今でもある程度までは有効です。しかし、賢明な思考のためにまず認識しなければならないことは、完全に統一的な制度を作る必要はないということです。あらゆる種類の仕事に対して、同額の取引をすることにこだわることはありません。
実際、すでに音楽にはさまざまな例外が設けられていて、統一は崩れています。音楽は、現行著作権法のもとでかなり異なる扱いを受けています。しかし、出版社がご都合主義的に統一性を強調するのは、あるずるい方法を使うためです。出版社は、特殊で特異な事例を引っ張り出してきて議論を進め、その特殊ケースでは、強力な著作権があるのは良いことだということを示します。そして、統一を守るために、すべてに対してその強大な著作権が必要だと結論付けるのです。ですから出版社は、比較的まれで特殊な上に、実際には大して重要な意味がないくせに、彼らにとって最強の議論を進められるような例を拾ってきます。
しかし、その特殊で特異な事例では、言われる通りの強大な著作権を容認すべきかもしれません。私たちは、すべての買物に同じ額だけ支払う必要はないのです。1000ドルで新車が買えれば、いい買物かもしれません。しかし、牛乳の容器のために1000ドルも支払うのだとすれば、とんでもないことです。生活のほかの場面では、買おうとしているあらゆるものに対して、特別な値段を支払うことはないでしょう。なぜ、著作権では同じ額を払おうとするのでしょうか。
私たちは、仕事の種類を区別する必要があります。そして、私はそのための方法を提案したいと思います。
まず最初に分類できるのは、機能的な作品です。つまり、仕事をするために使われる作品です。
これには、レシピ、コンピュータプログラム、マニュアル、教科書、辞書や百科事典などの参考図書が含まれます。これら機能的な作品については、どれも問題は基本的にソフトウェアと同じで、同じ結論が適用できると思います。機能的な作品に変更を加えるのは非常に役に立つことですから、変更済みのバージョンを公表する自由さえ与えられるべきです。人のニーズは、みな同じだとは限りません。私が自分で必要だと思う仕事をするためにこの作品を書いたとしても、皆さんがしたいと思う仕事のイメージは少し異なるかもしれません。ですから、あなたはこの作品を書き換えて、自分向きのものにしたいと思うでしょう。ここに、皆さんと同様のニーズを持つさらに別の人が現れたとします。この人は、皆さんが書き換えたバージョンをほしがるでしょう。料理をする人なら誰でもこのことは知っており、それは数百年前からずっと変わりません。レシピのコピーを作り、他人に渡すのはごく一般的なことであり、そのレシピを書き換えるのもごく当たり前のことです。皆さんがレシピを書き換えて友達のために料理を作ったとします。おいしいと思ったら、友達は皆さんに言うでしょう。「レシピをもらえる?」
すると、皆さんは自分のレシピを書き下ろして、そのコピーを友達に上げるでしょう。私たちがずっとあとの時代になってフリーソフトウェアコミュニティで始めたのは、これと同じことです。
というわけで、これが作品の第1分類です。
作品の第2分類は、思想を述べることを目的としたものです。これらの作品の目的は、人を語ることにあります。たとえば、紀要、評論集、学術論文、売買申込書、商品カタログなどです。これらの作品の目的は、誰かが考えたこと、見たこと、信じていることを読者に伝えることにあるので、書き換えてしまうと著作者を誤解させることになります。ですから、この分類に属する作品の書き換えは、社会的に有益な行為ではありません。この種の作品について、読者に認められるべき自由は、本文に一切の変更を加えない複製だけでしょう。
しかし、次に考えなければならないことがあります。それは、営利目的で本文に一切の変更を加えない複製を作る権利を国民に与えるべきかどうかです。非常利目的だけで充分でしょうか。これらは2つの明確に異なる行為ですから、これらの問いについては別個に考えていくことにしましょう。つまり、非営利目的で本文に一切の変更を加えない複製を作る権利と、営利目的で本文に一切の変更を加えない複製を作る権利です。営利目的の本文に一切の変更を加えない複製作成を著作権の対象とし、国民に非営利目的の本文に一切の変更を加えない複製作成の権利を与えるのは、政策的な妥協として良い線引きかもしれません。営利目的の本文に一切の変更を加えない複製作成とすべての改訂版(これは、著者だけが認められるものです)を著作権の対象とすれば、現在と同じ程度の範囲内の執筆資金が同じような流れで著作者に渡るようになります。
非営利目的の本文に一切の変更を加えない複製を認めるということは、著作権がすべての人の家庭まで侵入してくることがなくなるということです。著作権は、簡単に実施できて苦痛のない産業規制に再び戻ります。厳格な懲罰や密告者がなくても実施できるわけです。こうすれば、現行システムの利点の大半を得た上で、恐怖の大半を取り除けます。
作品の第3分類類は、美的、あるいは娯楽的な作品です。これらの作品でもっとも重視されるのは、作品を見たときに引き起こされる感覚です。これらの作品については、書き換えの問題は非常に難しくなります。一方では、芸術家のビジョンを反映する思想というものがあり、作品の書き換えはそれらのビジョンを混乱させることになります。しかし、もう一方では、一連の人々が作品に変更を加えていく過程で非常に豊かな結果を生み出すことがあるという伝承の効果があります。作品を作り出すのは芸術家ですが、既存の作品からの借用が良い結果を生み出すこともよくあります。シェークスピアの一部の作品は、他の芝居からストーリーを借りてきています。現在と同じような著作権法が当時も有効だったら、それらの作品は違法になっていたでしょう。美的、芸術的作品の変更版の発表をどのように扱うかは非常に難しい問題です。この問題を解決するためには、さらに小さな分類をいくつか作らなければならないのかもしれません。たとえば、コンピュータゲームのシナリオについては、変更版を公開する自由が与えられるべきでしょう。しかし、小説については、別の扱いが必要になると思います。おそらく、営利目的で出版するためには、オリジナルの作者の了承を必要とすべきでしょう。
これら美的作品の営利目的の出版を著作権の対象とする場合、著作者やミュージシャンに対する収益の流れの大半は現行通り、限界を含んだ形で残されることになります。こんなことを言うのは、現行制度が全然機能していないからです。作品が特定の人々を表現する場合に限り、適切な妥協を認めるようにすべきでしょう。
現在のような移行期を完全に通過し、コンピュータネットワーク時代が本格的に始まったときを先取りして考えるなら、著作者が仕事の対価を得るための新しい方法を構想できます。Internet 越しに他人に送金できる、逆にいえば仕事の対価を得ることができるデジタル振替システムを想像してみてください。たとえば、暗号化技術を使えば、これはさまざまな形で実現できます。そして、これら美的作品の本文に一切の変更を加えない複製は全面的に認めることとしましょう。ただし、それらの作品を見たり読んだりしているときに、画面の横に「これをクリックして、作者(あるいはミュージシャン、その他)に1ドルを送ろう」と書かれたボックスが現れるものとします。ボックスはそこに留まります。邪魔になるような形では表示されません。脇のところにちょこっと表示されます。邪魔にはなりませんが、作家や音楽家を支援するのは良いことだということを思い出せるように、必ず表示されます。
そして、読んだり聴いたりしている作品が気に入ったとします。皆さんはきっと、「作者に1ドル払わないって法はないな、たった1ドルだぞ、それが何だってんだ? なくしちゃうことだってあるくらいだぞ」というように考えることでしょう。こうして人々が1ドルずつ送り始めるようになります。この方法の良いところは、コピーを作ることが作家やミュージシャンのためになることです。誰かが友達にコピーを電子メールすれば、その友達も1ドルを送るでしょう。本当に気に入って1ドル送金を1度ならずするなら、現在皆さんが本やCDを買ったときに作者が手にする額よりも多くの額を作者に贈れます。現在、作者が手にしているのは、売上のほんのわずかなのです。作家と音楽家の名のもとに一般人に対する権力の強化を要求している同じ出版社が、実は作家や音楽家をいつも冷遇しているのです。
Salon 誌に掲載されたコートニー・ラブの記事をぜひ読んでみてください。彼女が取り上げているのは、報酬を支払わずにミュージシャンの仕事を使おうとする海賊行為の計画です。その海賊とは、平均で売上の4%をミュージシャンに支払うレコード会社です。もちろん、大成功を遂げているミュージシャンは、もっと大きな割合を得ます。彼らは、もともと大きい売上から4%よりも大きい額を得ます。ということは、大多数のミュージシャンは、もともと小さい売上の4%に満たない額で契約しているということです。
仕組みはこうです。レコード会社は宣伝にお金をかけており、この出費をミュージシャンに対する前払い金と考えていますが、ミュージシャンのほうは間違ってもそうは思っていません。そこで、皆さんがCDを買ったとき、名目上はその売上の何%かはミュージシャンに渡るはずですが、実際はそうではなくて宣伝費の回収に使われます。ですから、大成功を遂げたミュージシャンでなければ、CDの売上からの収益など見たこともないということになります。
もちろん、ミュージシャンがレコード契約を結ぶのは、ごくわずかの金持ちの1人になりたいからです。ですから、ミュージシャンに与えられているものは、餌としてのくじ引きの抽選機のようなものです。ミュージシャンは、音楽に優れていても用心深いとは限りませんので、この罠に落ちたとしても不思議ではありません。そこで、契約はしたものの、手にしたものは宣伝だけということがあり得ます。だったら、一般人に制限を課すことを基礎とし、売りやすいうるさい音楽を押し付けている複合企業に奉仕しているシステムではなく、別の宣伝方法をミュージシャンに提供してみてはどうでしょうか。好きな音楽を共有したいというリスナーの自然な衝動をミュージシャンのために役立てない手はないでしょう。ミュージシャンに1ドル送金をするためのボックスをプレーヤーに表示すれば、コンピュータネットワークは、ミュージシャンに現行のレコード契約から得られる宣伝費とまったく同じだけの報酬を提供するメカニズムになるでしょう。
私たちは、現行の著作権制度がミュージシャンを支えるということでは実にお粗末な機能しか果たしていないことを認識するとともに、貿易がフィリピンや中国の生活水準の向上のためにほとんど機能していないことも認識しなければなりません。これらの「産業振興地域」ではひどい搾取がまかり通り、すべての製品がそのような搾取の産物だと言っても過言ではありません。グローバリゼーションは、これら海外の人々の生活水準を向上させるということでは、非常に非効率的です。たとえば、アメリカ人が時給20ドルで何かを作っていたとします。その仕事を日給6ドルのメキシコ人に与えたらどうなるでしょうか。アメリカ人労働者から大金を取り上げ、そのごく数%をメキシコ人労働者に支払い、残りが会社に入るわけです。目標がメキシコ人労働者の生活水準向上なのだとすれば、これはお粗末なやり方です。
著作権が関わる産業と同じ現象が現れ、同じ発想が通用していることは、注目すべきことです。間違いなく報酬に値するこれら労働者の名のもとに、皆さんは彼らにごくわずかのお金を与えるだけで、実際には私たちの生命を支配する企業の権力強化のために大部分を費やしているのです。
非常に優れた制度を取り替える場合には、より良い制度を準備するために必死に働かなければなりません。しかし、現行の制度がお粗末なものだということがわかっていれば、より良い制度を見つけるのはそれほど難しいことではないでしょう。現在の比較基準は非常に低いところにあります。著作権政策について考えるときには、いつもこのことを忘れないようにしなければなりません。
以上で、私は言いたいことをほとんど言い尽くしました。最後に、明日*5はカナダの Phone-In Sick Day*6だということに触れておきたいと思います。明日は、アメリカ以外の国々への企業権益の拡張を目論む米州自由貿易圏の最終交渉として位置付けられているサミットの初日で、ケベックで大規模な抗議行動が予定されています。私たちは、今回の抗議行動を弾圧するために過激な方法が使われてきたことを知っています。米加国境は本来いつでも自由に出入りできるはずですが、多くのアメリカ人がカナダへの入国を拒否されています。もっとも言い訳の効かない蛮行は、抗議行動参加者たちをブロックアウトする要塞化の手段としてケベックセンターのまわりに壁が築かれたことでしょう。これらの条約に対する広範な抗議に対してさまざまな汚い手段が無数に使われてきたことを私たちは知っています。民主的に選出された統治者たちから権力を奪い、企業や選挙を経ていない国際組織に与えたあとに残された民主主義なるものは、どのようなものであれ、大衆抗議行動を弾圧してまで守るべきものではないのです。
私は、フリーソフトウェアとそれに関連した問題のために人生の中の17年間を捧げてきました。世界でもっとも重要な政治問題だと思ったから、そうしてきたわけではありません。良いことをするためには、この分野で自分の能力を使わなければならないと思ったからです。しかし、そのうちに政治全般の問題が大きくなってきて、今や、世界最大の政治問題の一つは、企業権力を一般国民や政府の上に位置付ける傾向への抵抗となっています。今日論じてきたフリーソフトウェアペ情報に関連するその他のさまざまな問題は、その大問題の一部だと思っています。ですから、私は自分がこの問題に関わっていることに間接的に気づくことになりました。問題解決のために、自分が何か貢献できればと考えているところです。
それでは、しばらく皆さんから質問やコメントを受け付ける時間を持つことにしましょう。しかし、まず私に全般的な感想を言わせてください。ストールマン氏が私たちに示されたもっとも強力でもっとも重要な指針には、2つの主要素が含まれていると思います。1つは、著作権の古い前提条件、古い使い方が、不適切なものになっているという認識です。これらは、コンピュータとコンピュータネットワークの登場により蝕まれ、否定されています。わかり切ったことかもしれませんが、本質的なことです。
もう1つは、デジタル時代の知的創造的労働が取るさまざまな形態を見極め、評価する方法について、見直しが必要になってくるということです。ストールマン氏は、特定の分野の情報産業については他の分野よりも著作権保護を厚くすることを認めておられますが、これは間違いなく正しいことでしょう。著作権保護のさまざまな種類あるいはレベルを系統的に明らかにしていく作業は、コンピュータの登場によって知的労働に課せられた問題に取り組む上で、非常に価値のあることだと思います。
しかし、コンピュータとは直接的には無関係ながら、より広範に民主的な権限の問題についてストールマン氏が述べられたこと、つまり政府や企業が一般人に対して行使している権力が強化されているという問題について述べられたことの背後には、別のテーマが潜んでいるように思います。ストールマン氏が話された内容のこのようなポピュリスト的で反企業的な側面は、示唆に富むものの、還元主義的で、あるいは単純化し過ぎなのではないかと思います。理想主義的に過ぎるのではないかとも思います。たとえば、著作者にお金を支払うことが奨励されていても義務とはなっていないこのすばらしい新世界で、小説家や詩人や作曲家やミュージシャンや教科書の著者は、果たして生き残ることができるのでしょうか。言い換えれば、現在実践されていることと、ストールマン氏が夢想する可能性との間には、まだ非常に大きな隔たりがあるのではないかということです。
というわけで、ストールマン氏に、この部分について話された内容をもう少し展開していただけるよう、特に「伝統的なクリエーター」と呼ぶべきものがストールマン氏の著作権制度のもとでちゃんと守られるのかどうかを説明していただけるようお願いして、私の発言を締めくくらせていただきたいと思います。
まず第1に、著作権の機能として「保護」という用語を使うべきではないということを申し上げなければなりません。著作権は、人々を制限するものです。「保護」は、著作権所有ビジネスのプロパガンダ用語です。「保護」という言葉は、何かが何らかの形で破壊されるのを防ぐことを意味します。演奏されるコピーが増えたからといって歌が破壊されるとは思いませんし、コピーを読む人が増えたからといって小説が破壊されるとも思いません。ですから、私はこの言葉を使いません。この言葉は、人々を誤った立場に導くものだと思います。
また、私は2つの理由から「知的財産権」について考えるのは良くないと思っています。まず、この分野におけるもっとも根本的な問いについて先入観を与えます。それは、これらのものをどのように扱うべきか、またこれらを一種の財産として取り扱ってよいものかどうかということです。「知的財産権」という用語を使うことは、この問いに対する答えが「イエス」であることを最初に前提とすることであり、他の考え方はないと決め付けることになります。
第2に、知的財産権という用語は、過度の一般化を招きます。知的財産権という用語は、著作権、特許権、商標権、企業秘密、その他独立した起源を持ち、異なる法制が敷かれているさまざまなものをひとまとめにしてしまいますが、これらはまったく異なる概念であり、共通点はどこにもありません。しかし、「知的財産権」という用語を聞いた人々は、一定の領域に適用される知的財産権の一般原則というものがあるかのような誤ったイメージに導かれ、これらさまざまな法律に類似点があるように勘違いします。著作権法と特許法と商標法はまったく違うものなのに、同じようなものだと考えるわけですから、このような誤解は、何をすべきかについて考えるときに混乱を招くだけではなく、法律が実際に主張していることを理解する上でも障害になります。
ですから、精密に思考を進め、法律の主張をはっきりと理解したければ、「知的財産権」という用語は避けるべきです。著作権について話し、特許権について話し、商標権について話し、そのほか話そうとしているテーマについて話すべきですが、知的財産権について話そうとすべきではありません。知的財産権についての見解は、馬鹿げたものにならざるを得ません。私には、知的財産権についての意見はありません。著作権、特許権、商標権についての意見はありますが、それらは別のものです。これらの法制はまったく別のものですから、それらの意見は、まったく異なる思考プロセスをたどって獲得したものです。
脇道に逸れてしまいましたが、これは非常に重要なことです。
では、ご質問の点についてお答えしましょう。もちろん、今はそれがどの程度うまく機能するかはわかりません。好きな作家やミュージシャンに自発的にお金を払うように人々に要請する方法がうまく機能するかどうかはわかりません。しかし、はっきりしていることは、そのような制度がうまく機能するかどうかは、ネットワークに参加している人々の数に比例するということです。そして、その数は、数年のうちに桁が変わるくらいの勢いで増えるでしょう。今試みても失敗するかもしれませんが、だからといって何かが証明されるわけではありません。10倍の人々が参加すれば成功するかもしれません。
まだデジタル振替システムは存在しないという問題もあります。ですから、今試してみたくても試せないのです。少し似たことを試すことはできます。今でも、Pay Palのように誰かに料金を支払うためのサービスに加入することはできます。しかし、Pay Palで誰かに送金しようと思ったら、煩雑な手続きを踏んだ上で、自分の個人情報を Pay Pal に差し出さなければなりません。しかも、Pay Pal は誰が誰にお金を振り込んだかを記録しています。Pay Pal がその情報を悪用しないと保証できるでしょうか。
1ドルを支払うのはいやでなくても、支払いに関連したトラブルに嫌気がさすということはあるかもしれません。ポイントは、その気になったときにできるだけ簡単に支払えるようにして、実際の金額以外にブレーキをかけるものがないようにすることです。そして、金額がごく小さなものであれば、躊躇する理由があるでしょうか。ファンというものは本当にミュージシャンを愛しているものですし、ザ・グレイトフルデッドのように成功を収めた(そして現に成功し続けている) バンドが、ファンに音楽のコピー、再頒布を勧めているという例もあります。テープを作ってそれをコピーすることを奨励しているからといって、彼らが音楽では生活できなくなったなどということはありませんし、レコードの売上が落ちたということさえありません。
私たちは、印刷機の時代からコンピュータネットワークの時代に緩やかに移行しつつありますが、1日で時代が切り替わるということはありません。人々はまだ大量のレコードを買っていますし、それはまだ当分続くでしょう。あるいは永遠に続くかもしれません。レコードが残る限り、営利目的でのレコードの販売に未だに適用されている著作権保持という制度は、ミュージシャンを支えるということについて、現在と同程度の仕事をする必要があります。もちろん、この制度は余り良いものではありませんが、少なくともこれ以上悪くしてはなりません。
[フリーダウンロードと Web上で連載小説を販売するというスティーブン・キングの試み*7についてのコメントと質問]
はい、彼がしたことと実際に起きたことは、面白いテーマです。初めてその話を聞いたとき、私は勇気付けられました。彼は、一般人を縛り付けて逃がさないようにするのとは違う新しい世界に一歩踏み出そうとしているのだと思ったのです。彼が実際に読者に支払いを要請するために書いたものを見たのは、そのあとです。彼がしたことを説明するなら、分割払いの連載小説を刊行しつつ、「充分な入金があったら、続きを書く」と言ったわけです。しかし、彼が書いた要請は、ほとんど要請ではなく、読者に対する威嚇です。「お金を払わない読者は悪いやつだ。悪いやつが多過ぎるようだったら、俺は書くのを止めるぞ」
一般人が送金しようという気になるのは、このような形でないことは明らかでしょう。恐れさせるのではなく、好きにさせるのでなければ。
詳しく言えば、彼は読者の中の一定の割合(正確な数字はわかりませんが、90%くらいだと思います)が、一定額(これも1ドルか2ドルか、その程度です)を送ることを要求したのです。ダウンロードするときには、名前と電子メールアドレスとあといくらかの情報を入力しなければなりませんでした。そして、彼は、第1章をリリースしたあと、読者が規定の割合に達しなければ、次の章はリリースしないと言いました。ダウンロードした読者からすれば、ずいぶん反感をそそられる内容だったと思います。
著作権がなく、自発的に寄付してほしいと言われるだけの制度は、盗作者に悪用されるのではないでしょうか。
いいえ、私が提案したのはそういうことではありません。私の提案は、営利目的の頒布には著作権を適用し、営利目的ではない本文に一切の変更を加えない再頒布だけを認めるというものです。ですから、本当の作者の Web サイトではなく、自分の Web サイトにポインタを書き換えた人物は、著作権を侵害したということになり、今日と同じように告発されます。
わかりました。つまり、あなたはまだ著作権がある世界をイメージしているのですね。
はい。さっき言ったように、そういう種類の仕事に対しては著作権はあります。私は、すべてのことを認めるべきだとは言っていません。私が提案しているのは、著作権の権力を弱めることで、廃止することではありません。
リチャード、あなたの講演中に思い浮かび、今あなたがこの質問に答えているときにまた浮かんだ疑問なのですが、あなたはなぜ、コンピュータ自体が仲介者を取り除き、個人的な関係を築く方法(スティーブン・キングが拒んだ方法ですが)を検討されないのですか。
はい、それは可能ですし、自発的な寄付方式もその1つです。
出版社をまったく介さない方法を考えているわけですか。
もちろんそうです。出版社は、作家を散々食いものにしていますからね。出版社の代表にこのことについて尋ねると、彼らは、「作家やバンドが出版社を通したくないと言われるのなら、それで結構、法的に義務付けられているわけではありませんよ」と答えるでしょう。しかし、実際には、出版社は、自分抜きで仕事をすることが不可能になるように、全力を尽くしています。たとえば、出版社はコピー制限付きのメディアフォーマットを提案していますが、このフォーマットで作品を発表したければ、大手出版社を通さなければなりません。大手出版社は、こういうメディアの作り方を誰にも教えませんから。つまり、出版社は、すべてのプレーヤーがこのフォーマットで再生を行い、プレーヤーで再生できるものを作りたければ、出版社を介在させなければならないような世界を望んでいるのです。実際、作家やミュージシャンが直接出版することを禁止する法律はありませんが、直接出版には現実性がないのです。それに、ヒットすれば金持ちになれるという誘惑があります。出版社は、「うちで君のことを宣伝すれば、君はきっとビートルズ(ここのところには、大成功を収めた任意のグループの名前を入れてください)のような金持ちになれるよ」と言いますが、もちろん、本当にそうなるミュージシャンはごくわずかです。しかし、多くのグループは、その言葉につられて契約書にサインし、永遠に縛り付けられるのです。
出版社は、一般に作者との契約を余り守ろうとしません。たとえば、一般に書籍の出版契約には、本が品切れになったら権利は作者に返還されるという条項が含まれていますが、一般に出版社はこの条項を守ろうとはしてきませんでした。強制しなければ守ろうとしないことが多いのです。そして、最近は電子出版を永遠に品切れにならないという言い訳に使おうとしています。品切れにならなければ、権利を返還する必要もないというわけです。出版社は、作者が無力なうちに契約させれば、そのまま無権利状態が続くと考えているわけです。権力を持っているのは、出版社だけです。
さまざまな種類の仕事について、すべてのユーザーに対して適切な形でコピーを作る自由を保証するようなフリーライセンスを用意しておいてはいかがでしょうか。
はい、その仕事は始まっています。しかし、機能的な作品以外の分野では、1つのものが別のものの代わりになるということはありません。機能的な作品、たとえばワープロについて考えてみましょう。誰かがフリーのワープロを作ったら、それを使えばいいわけです。フリーではないワープロは不要になります。しかし、1曲のフリーソングでフリーではないすべての曲が不要になるわけではありませんし、1篇のフリー小説でフリーではないすべての小説が不要になるわけではありません。この種の作品では、事情が異なるのです。そこで、そんな法律など守るに値しないということを私たちが認識すればよいのではないでしょうか。隣人と共有するのは悪いことではありません。誰かが隣人との共有は認められていないと言ったとしても、聞く耳を持たなければよいのです。
機能的な作品に関してですが、著作権廃止のニーズとこれら機能的作品の開発を促進するための経済的な動機のニーズとの間で、どのようにバランスを取っていったらよいとお考えですか。
まず最初に確認しておかなければならないことは、その経済的動機というものは、人が考えているほど必要ではない、人が考えているよりずっと少なくてよいということです。フリーソフトウェア運動を見てください。10万人ものパートタイムのボランティアがフリーソフトウェアを開発しているんですよ。また、一般の人々にこれらの仕事のコピー、変更を禁止することなく、仕事のための資金を獲得するための方法がほかにもあることを示しています。これは、フリーソフトウェア運動が残したすばらしい教訓だと思います。コンピュータを使いながら、他人と協力し、共有する自由を確保する手段を提供しているということは別として、フリーソフトウェア運動は、支払いを強制する特別な権力がなければ誰もお金を出さないという否定的な想定を覆したのです。多くの人々は、自発的にそうします。たとえば、モノグラフの執筆について考えてみてください。これは科学のさまざまな分野で教科書として役に立つものですが、非常に基本的なものを除けば、著者たちはモノグラフで金儲けしようなどとは思っていません。現在は、フリー百科事典のプロジェクトがあります。これは、実際には商用フリー百科事典プロジェクトですが、これが進行しつつあります。私たちにもGNU 百科事典のプロジェクトがありましたが、このプロジェクトが私たちのライセンスを受け入れてくれたので、一緒に行うことにしました。1月に、商用プロジェクトは、百科事典のすべての項目について GNU 自由公開文書使用許諾書を適用することになりました。ですから私たちは、「彼らと力を合わせて、このプロジェクトに貢献するよう、人々に呼びかけていこう」と言っています。このプロジェクトは NUPEDIA というもので、http://www.gnu.org/encyclopedia/ にはここへのリンクが含まれています。このように、私たちはフリーな知識のコミュニティによる開発の試みを、ソフトウェアから百科事典に広げたわけです。今、私には、これら機能的作品のすべての分野で、作品が使い辛くなってしまうほどの経済的動機を設ける必要はないという確信があります。
他の2つの分野([思想、娯楽])はどうでしょうか。
他の2分類の作品については、わかりません。作品がお金になるかどうかを気にせずに小説を書ける日が来るかどうか、私には何とも言えません。経済的希少性がなくなった世界では、可能だと思います。経済的希少性のない社会を築くためには、経済と法律に対する企業の支配を取り除かなければならないと思います。実際には、これは鶏が先か卵が先かという問題です。どちらを先にしたらよいのでしょうか。企業支配を取り除かずに、人々が無性にお金をほしがる必要のない世界にたどり着くにはどうしたらよいのでしょうか。企業支配を取り除くにはどうしたらよいのでしょうか。私にはわかりません。しかし、まず著作権制度との妥協を提案し、次にそれらの作品を書く人たちに収入の流れを確保するために、妥協的著作権制度の下支えを受ける形で自発的な支払い方式を提案しようとしているのは、それらわからないことがあるからです。
政治献金制度によってアメリカの政治家たちが企業の利益にがんじがらめになっている状態で、この妥協的な著作権制度を実現できると本当に思っているのですか。
それは困った問題です。実現方法がわかればよいのですが、恐ろしく難しい問題になるでしょう。問題の解決方法がわかっていたら、解決しているはずですし、私はもっと胸を張っていられたところですが。
あなたは企業支配に対してどのように闘うのですか。と言うのも、企業が裁判につぎ込む費用は、合計で見るととてつもない額になっています。あなたが触れた DeCSS (CSS 復号化) 裁判では、被告側にかかった費用は150万ドルほどだそうです。企業サイドがどれだけの費用をかけたかは神のみぞ知るです。この巨額の費用の捻出方法については何かお考えはありますか。
私には提案があります。映画を丸々ボイコットしようと提案しても、そんな提案は人々に無視されてしまうでしょう。それではあまりにも過激に感じられてしまうからです。ですから、結果的にはほとんど同じことになる少し異なる提案をしたいと思います。それは、非常に良いというはっきりとした理由がない限り、映画を見に行かないようにしようというものです。こうすれば、ハリウッド映画を完全にボイコットするのと実質的に同じ結果になるはずです。広い意味では同じことになりますが、意図は非常に異なります。多くの人々は、映画が良いと思っているかどうかと無関係に映画に行っています。皆さんがそのような習慣をやめて、とても良いと思うしっかりとした理由のある映画だけを見るようにすれば、映画会社からかなりの資金力を奪うことができます。
今日の講演全体を理解するための1つの方法は、社会に変革を迫るような根源的なテクノロジーが現れると、それを支配する者との間で争いが起きることを認識することなのだろうと思います。今日の私たちは、過去に起きたことを繰り返しているのです。この角度から考えると、これから長期的に起きることについて、絶望したり、まして悲観的になったりするいわれはないのかもしれません。しかし、短期的には、テキスト、イメージ、その他あらゆる形態の情報の支配に対する闘いは、苦しく、広範なものになるでしょう。たとえば、私はメディア学の教師ですが、イメージの利用に関しては、近年いまだかつてない形で制限を受けるようになってきています。評論を書くために静止画を使いたいと思うとき、映画から取り出したものでさえ、使用許可を得るのが難しくなってきていますし、使用料は以前よりもはるかに高くなっています。学術調査や「公正利用」の法的分類についての論文を書くときでさえそうです。それでも、この長い移行期の長期的な展望は、短期的に起きていることほどひどいものではないと思います。ただ、私たちが今経験していること全体は、西側社会で繰り返されている技術資源の支配をめぐる闘いの新しいバージョンだと理解する必要があります。
また、古いテクノロジーの歴史自体、複雑な事象だったことも理解する必要があります。たとえば、印刷機がスペインに与えた影響は、イギリスやフランスに与えた影響とは根本的に異なります。
著作権の議論を聞くときにいつも引っかかるのは、「180度方向転換したい、あらゆる支配を脱したいのだ」という話になることが多いことです。しかし、3分類説には、著作権制度に対する一定の理解が含まれているように感じられました。実際、現在の著作権のあり方についての評論の中には、存続期間を特許権や商標権並に見直せばはるかにうまく機能するはずだというものがあります。講演者は、この戦略をどう思われるでしょうか。
著作権の存続期間の短縮は、私も良いアイディアだと思います。著作権を150年も存続させるような方法を取ってまで(現行法では、そうなる場合があるのですが)、作品の公刊を奨励する必要は間違ってもありません。企業は、雇用を伴う作品の75年という著作権は、そのような作品を制作できるようにするために決して長いものではないと言っていました。そのような企業には、主張を裏付けるために、今後75年間の予想貸借対照表を提出してみろと言いたいものです。彼らが本当に望んでいたことは、古い作品の著作権を延長し、その利用に制限を加え続けられるようにすることです。しかし、どっかにタイムマシンをしまってあるというのでもない限り、今著作権を延長することによって1920年代の作品制作を奨励することがどうやってできるでしょうか。ある映画には、確かにタイムマシンが登場していました。ですから、映画会社の思考回路はそれに影響を受けているのかもしれません。
あなたは「公正利用」の概念を拡張することを考えたことがありますか。また、私たちに対して特に説明しておきたいニュアンスはありますか。
2種類の作品について、すべての人に対し非営利の本文に一切の変更を加えない複製を認めるというアイディアは、公正利用概念の拡張と思われるかもしれません。これには、現在言われている公正利用よりも大きな意味があります。しかし、あなたが進歩のために国民が一定の自由を交換するという立場に立つのであれば、さまざまな場所に線を引くことができるでしょう。国民が交換したい自由がどれで、確保しておきたい自由がどれかということです。
話をちょっと先に進めますが、一部の娯楽分野には、公開演奏という概念があります。たとえば、著作権法は、季節がきたときにクリスマスキャロルを歌うことを禁じてはいませんが、公開演奏することを禁じています。公開利用を無制限の非営利逐語コピーに拡張するのではなく、それよりも狭く現在の公正利用の概念よりも大きいところに拡張するのはどうでしょうか。
私もそれで充分だと思っていたことがありましたが、Napster によって考えが変わりました。というのも、ユーザーは、非営利の本文に一切の変更を加えない再頒布のために Napster を使っているからです。Napsterサーバ自体は営利活動ですが、実際にサーバに情報を登録している人々は非営利で行っていますし、それは自分の Web サイトに情報を登録するのと同じように簡単です。Napster が巻き起こした興奮と、関心、利用度の高さを見ると、Napster は非常に役に立っているという結論になります。ですから、現在の私は、すべての情報の本文に一切の変更を加えない複製を非営利で公開再頒布できる権利がすべての人に必要だと考えています。
最近教わった考えですが、Napster 問題は、公共図書館のアナロジーだというのです。Napster 論争を聞いたことのある方は、このアナロジーをお聞きになったことがあると思います。これについてコメントしていただけませんか。Napster は営業を継続できるようにすべきで、制限を課すべきではないとする Napster 擁護論者は、「公共図書館に言って本を借りた人は、使用料を払うわけではないし、数十回でも数百回でも、追加使用料を払わずに借りることができる。Napster に違いはあるのか」という言い方をします。
Napster と公共図書館は、正確には同じだとは言えません。しかし、出版社が公共図書館をペイパーユース(利用ごとに支払う方式)の小売店のように変えたいと考えていることには触れておく必要があります。ですから、出版社は、公共図書館に反対しているのです。
著作権についてのあなたのお考えは、アフリカ向けの安い一般向けの薬の製造のような特許法関連の問題にも何らかの関連がありますか。
いいえ、両者に類似点はまったくありません。特許権の問題と著作権の問題はまったく別個のものです。これらが互いに関係を持つという考え方は、「知的財産権」のような用語が使われ、これらの問題をひとまとめに考えることを促す動きが進められていることの不幸な結果の1つです。私が今日話してきたことは、コピーの価格は重要な問題ではないということです。しかし、アフリカ向け AIDS 薬にとって重要な問題は何ですか。価格です。価格以外の何ものでもありません。
私が話してきた問題が起きたのは、デジタル情報テクノロジーがすべてのユーザーにコピー作成能力を与えたからです。しかし、薬のコピーを作成する能力を与えてくれるものはありません。私は、自分が手に入れた薬のコピーを作る能力を持っていませんが、実際、そんな能力を持っている人はいないのです。薬は、そのようにして作られるものではありません。薬は、一般向けのものでも、アメリカから輸入されるものでも、高い建設費用のかかる中央集権化された工場以外では作れません。いずれにしても、薬は少数の工場で作られます。そして、問題は単純に薬を作るのにいくらかかるのか、アフリカの人々が買えるような値段で売られるかどうかです。
ですから、AIDS 薬の問題は非常に重要な問題ですが、これは今日の話とはまったく異なる問題です。実際に特許がコピーの自由の問題に接近する分野は1つだけあります。それは、農業です。多少なりともコピー可能で特許の対象にもなるのは、主として生き物です。生物は、生殖時に自分のコピーを作ります。まったく正確なコピーである必要はありません。遺伝子をシャッフルし直します。いずれにしても、農民たちは数千年もの間、自分自身のコピーを育てるという生き物の能力を利用してきました。農業とは、基本的に育てているものをコピーすることであり、毎年コピーし続けることです。植物や動物の種が特許の対象となり、遺伝子に特許が認められて動植物の中で使われると、農民は今までしてきたことを禁止されることになります。
特許の対象となっているある変種を畑で育てていたカナダのある農民は、こう言いました。「わざとやったわけではないんだ。花粉が飛んできて、遺伝子の渦巻きがうちの倉庫に紛れ込んだだけだ」 しかし、この主張は無視され、彼は作物を破棄しなければならなくなりました。これは、政府がどこまで独占主義者側に立てるかということの極端な例を示しています。
この問題については、コンピュータ内のもののコピーに適用されるのと同じ原則に従い、農民には種を保存し、家畜を育てる権利を無条件に与えるべきです。種苗会社に制限を加える特許はあり得ますが、農民に制限を加える特許はあってはなりません。
モデルを成功に導くためには、ライセンス以上のものが必要です。それについてお話しいただけますか。
ええ、もちろん。もっとも、私は答えを知っているわけではありません。しかし、フリーな機能情報を発展させる上で非常に重要なものの1つは、理想主義だと思っています。この種の情報の自由が非常に重要だということ、自由な情報はフルに活用できるということを人々は認識しなければなりません。制限のある情報は、フルに活用できません。フリーではない情報は、人々の間に分裂を持ち込もうとし、人々を孤立無援の絶望的な気分に押し込めます。こういったことを認識すれば、「協力して自分たちが使いたい情報を作ろう。そうすれば、その情報は、何ができるかを命令できる権力者の支配を脱することができる」と考えることができます。
これは、[フリーソフトウェアコミュニティの発展を]大幅に加速させます。異なるさまざまな分野でこの考え方がどの程度機能するものか、私にはわかりませんが、教育の分野で教科書が必要になったときには、これが機能するのではないかと思います。世界中には教師がたくさんいます。有名な大学で教えているわけではない教師たち、たとえば高校で教えているかもしれないし、単科大学で教えているかもしれない。あまりいろいろなものを書いたり出版したりしていないかもしれませんし、求められることも少ないかもしれません。しかし、多くの教師は、明晰な人々ですし、自分のテーマのことを良く知っています。さまざまなテーマの教科書を書き、それを世界中で共有することができます。そして、その教科書を使って学んだ人々から大変感謝されることでしょう。
それはまさに私が提案したことです。しかも面白いことに、私が知っているのは教育の歴史です。私が進めているのは、教育電子メディアプロジェクトですが、実例がまだ見つかりません。あなたはご存知ですか。
いいえ。私がこのフリー百科事典とフリー学習教材を提案したのは2年前で、そのときには物事がうまく回るようになるまで、おそらく10年はかかるだろうと思っていました。百科事典は、すでに回転し始めました。ですから、事態は私の予想よりも速く進んでいます。次は、フリーの教科書を書き始める人が何人か出てこなければなりません。自分の得意なテーマについて1冊、あるいはその一部を書くのです。1冊のうちの数章を書いて、残りを書いてくれる人を募るのも良いでしょう。
私が探していたものは、実際にはそれ以上のものです。あなたが述べられたような構造を築く上で重要なのは、他のすべての人々が貢献できるようなインフラストラクチャを構築する人です。教材を寄付しようにも、幼稚園から高校卒業までを貫くインフラストラクチャがありません。
情報はあちこちから入りますが、それらはフリーライセンスのもとでリリースされているわけではありません。ですから、それをフリー教科書で利用できないのです。
実際には、著作権は事実を対象とすることはできません。対象となるのは、書き方だけです。ですから、任意の場所である分野について学習し、教科書を書けば、その教科書をフリーにすることはできます。
しかし、1人の生徒が学校の全過程を履修するために必要なすべての教科書を私一人で書くことはできません。
それはそうでしょう。私も、フリーオペレーティングシステム全体を書いたわけではありません。私が書いたのは一部だけで、あとは私と一緒に他の部分を書く人を誘ったのです。私は実例を示し、「私はこちらのほうに行きます。私と一緒に来てくれれば、そこにたどり着くことができます」と言ったのです。そして、充分な人々が参加したので、ここまでたどり着くことができました。ですから、この巨大な仕事を全部成し遂げるにはどうしたらよいか、という考え方をすると圧倒されてしまうかもしれません。大切なのは、そのような考え方をしないことです。一歩前進することを考えましょう。あなたが一歩前進したら、他の人が数歩前進します。それらの力を合わせていくうちに、最終的に仕事が完成するのです。
人類が自滅しないとすると、私たちが世界のためにフリーな教育インフラストラクチャ、フリーな学習教材を作るために今日していることは、人類が続く限り、役に立ちます。完成するまでに20年かかったとしても、それが何だというのでしょう。ですから、仕事全体の大きさを考えるのではなく、あなたがしようとしている部分のことを考えるのです。そうすれば、人々にそれが可能だということを示すことになります。そして、他の人々もそれぞれができることをするようになるでしょう。
初出:2001年4月19日に MIT で開催された Communications Forum における講演記録に編集を加えたもの。このバージョンは、"Free Software,Free Society: Selected Essays of Richard M. Stallman", 2002, GNU Press(http://www.gnupress.org/); ISBN 1-882114-98-1の一部である。
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