著作権法に奇妙で危険なことが起きようとしている。合衆国憲法のもとでは、著作権はユーザー(本を読み、音楽を聴き、映画を見、ソフトウェアを実行する人々)を守るために存在するもので、出版社や著作者のために存在するわけではない。しかも、人々は「自らの利益のために」押し付けられた著作権の制約を拒絶し、従わない傾向を強くしている。にもかかわらず、合衆国政府は制約を追加し、新しい過酷な刑罰に服するよう人々を脅迫している。
著作権政策は、どのような経緯でもともと述べられていた目的と正反対のものになってきたのだろうか。そして、当初の目的に沿ったものに著作権政策を引き戻すためにはどうしたらよいのだろうか。それを理解するためには、合衆国著作権法のルーツである合衆国憲法を見てみなければならない。
合衆国憲法が立案されたとき、著作者が著作権を独占するという考え方が提案され、そして否決された。私たちの国家の創設者たちは、著作権は著作者の自然権ではなく、進歩のために著作者に対してなされた譲歩という異なる前提を採用した。憲法は、以下の条文(第1条第8節)で著作権制度を認めている。
[議会は] 著作者と発明者に対し、それぞれの作品および発明についての独占的な権利を一定期間保証することによって、科学および有用な技芸の進歩を促進する [権限を有する]。
最高裁は、進歩の促進とは、著作権が付与されている仕事の利用者(ユーザー)の利益を意味することを繰り返し確認している。たとえば、Fox Film-Doyal 裁判の判決は、次のようになっている。
合衆国の唯一の関心と [著作権] 独占を認めている主要な目的は、作者の労力から国民が引き出せる利益全般にある。
このきわめて重要な判決は、著作権が憲法によって義務付けられているのではなく、選択肢として許可されているだけだということの理由、そして「限定された期間」で消滅する理由を説明している。著作権が自然権で、著作者が著作者としての資格のために持つ権利だとすれば、著作権が一定期間経過後に消滅することを説明できない。建設後一定期間を経過した住宅を公有財産にすべきだと言うのとは違うのである。
著作権制度は、特権を提供し、出版者と著作者に利益を供与することによって機能するが、それを目的としているわけではない。出版者や著作者の行動を変える、つまり、より多くのものを執筆、公刊する動機を著作者に与えるために、そのようなことをしているのである。実質的に、政府は、公刊され、国民に供される仕事を増やすための買物として、国民に代わって国民の自然権を売っていることになる。法学者たちは、この概念を「著作権の廉売(copyright bargain)」と呼んでいる。これは、納税者のお金を使って高速道路や航空機を購入しているのと同じようなものである。違うのは、政府が国民のお金の代わりに国民の自由を使っていることである。
しかし、今ある取引制度は、国民にとって良い買物になっているだろうか。取引の方法はいくつもある。どれがベストだろうか。著作権制度のすべての争点は、この問の一部である。この問の性質を誤解すれば、争点の解決方法がまずいものになる。
憲法は著作者に著作権を認めているが、実際には著作者は出版者 (社)に著作権を譲ることが多い。確かに著作者もわずかな利益を得るが、通常この権利を行使して利益の大半を得るのは、著作者ではなく出版社なのである。つまり、通常著作権を増強するために議会に圧力をかけてくるのは、出版社である。本稿では、著作権の神話よりも現実を反映させた議論のために、著作権の保持者を著作者ではなく出版社と呼ぶことにしよう。また、著作権の保護下にある仕事を使うことは必ずしも「読む」ということではないが、「ユーザー」では抽象的でぴんとこないので、利用者のことを「読者」と呼ぶことにしよう。
著作権の廉売は、国民を第1に位置付けている。読者たる国民の利益はそれ自体で目的だが、出版社のための利益(あるなら)はその目的のための手段に過ぎない。読者の利益と出版社の利益の優先順位は、質的に異なるのである。著作権の目的を誤解する第一歩は、出版社に読者と同水準の重要性を認めてしまうことである。
合衆国著作権法は、出版社と読者の間で利益の「衡平を保つ」ことを目的とするものだとよく言われている。この解釈を口にする人々は、憲法に書かれている基本的な立場の言い換えとしてこれを提出する。つまり、著作権の廉売は利益衡量と同じ意味だとされるのである。
しかし、これら2つの解釈は同じだとはとても言えない。概念的にも、内包する意味にも違いがある。衡平概念は、読者と出版社の利益の差とは量的なものだけだという前提に立っている。彼らに「どの程度の重さ」を与えるか、両者がどのような行為をするかの違いだけだとみなしている。「係争物受寄者」という用語は、このような形で問題の枠組みを作るために使われることが多い。この用語は、政策決定においてあらゆる種類の利益が等しく重要だということを前提としており、この考え方は、著作権の廉売に政府が参加する根拠となっている読者と出版社の利益の質的な違いというものを無視している。
このすり替えの結果は非常に重大である。と言うのも、著作権の廉売では国民のために与えられていた大きな保護(著作権という特権が正当化されるのは、出版社の名ではなく、読者の名のもとによってのみであるという思想)が、「利益衡量」解釈によって捨て去られてしまうからである。出版社の利益がそれ自体で目的とみなされるので、それが著作権特権を正当化してしまう。つまり、「利益衡量」概念は、国民以外の誰かの名のもとにこの特権が正当化されると言っているのだ。
現実問題としては、「利益衡量」概念は、著作権法の改訂理由の挙証責任を転換する結果を生む。著作権の廉売は、読者に特定の自由を放棄させるために、出版社に負担を負わせる。現実的に言って、利益衡量概念はこの負担を逆転させる。特権の付加によって利益を得るのは間違いなく出版社なのだ。出版社の利益よりも「重い」読者側の害が立証できない限り、出版社は要求するほぼすべての特権を得ることができるという結論に導かれてしまうのである。
出版社と読者の間の「利益衡量」概念は、読者に与えられるべき1番の地位を否定するものなので、私たちはこれを拒否しなければならない。
政府が国民のために何かを買うとき、政府は国民の代理として機能している。政府の責任は、契約相手のためにではなく、国民のために最良の買物をすることである。
たとえば、高速道路の建設のために建設会社と契約を結ぶとき、政府は国民の税金をできる限り節約しようとする。そこで、政府機関は価格引き下げのために競争入札を行う。
現実問題として、契約相手が0ドルで入札してくることはないので、価格が0になることはありえない。深く考えるまでもなく、彼らは自由社会の市民としての通常の権利を持っており、その中には不利な契約を拒否する権利が含まれている。しかし、最低入札額でも、契約相手によっては充分に儲けられる仕事になるかもしれない。そのため、一種の利益衡量は確かに必要である。しかし、それは、各々特別に考慮すべき主張を持った2つの利益の衡平を慎重に取るということではない。国民の目標と市場の力の間で衡平を取るということである。政府は、自動車を持つ納税者のために、自由社会と自由市場の枠内で入手できる最良の買物をするように努力する。
著作権の廉売の場合、政府は、国民のお金の代わりに自由を支払う。自由はお金よりも貴重なものなので、賢く、できる限り節約して支払うという政府の責任は、お金のときよりもさらに重いものになる。政府が国民の自由と同じ基準で出版者の利益を後押しするようなことがあってはならない。
読者の利益と出版者の利益を秤にかける考え方は、著作権政策の判断方法として誤っているが、本当に2つの利益を秤にかけなければならない場合もある。それは、読者の間の2つの利益である。読者は、出版された仕事を利用する自由という利益を持つ一方で、状況によっては、何らかの動機誘発制度によって出版を奨励する関心を持つ場合がある。
著作権の議論における「衡量」は、読者と出版者の間の「利益衡量」の考え方の略称となってしまった。そのため、読者の間の2種類の利益について「衡量」という単語を使うと、混乱を招いてしまう。別の用語が必要なのだ。
一般に、共同当事者が部分的に矛盾する2つの目標を持ち、両者を完全に実現することができないとき、私たちはこれを「調整」と呼ぶ。そこで私たちは、双方当事者の間で「利益衡量」を行うとは言わず、「私たちの自由の放棄と確保の間で正しい調整方法を探す」と言うことにする。
著作権政策の第2の誤りは、出版された仕事の数を単に増やすのではなく、最大限に増やそうとすることを目標に掲げることである。「利益衡量」の誤った考え方は、読者を背後に持つ当事者というところまで、出版社の地位を引き上げた。第2の誤りは、出版社を読者よりもはるかに上の位置に置いてしまう。
私たちは、買物をするときに、一般にすべての在庫を押さえたり、もっとも高価なモデルを買ったりはしないものである。必要な分量だけ買ったり、最高品質ではなく自分にとって充分なモデルを選択して、他のものを買うための資金を残しておくものである。収穫逓減の法則によれば、特定の商品にすべての資金を投入すると、資源を効率的に配分できなくなる。一般に、私たちは他の用途のためにお金をいくらか残しておくものである。
著作権の場合でも、収穫逓減の法則は他の買物と同じように働く。私たちが最初に自由を明け渡すとき、私たちが失う自由は最小で、出版社が得る援助は最大になる。その後、自由をさらに明け渡していくと、私たちの犠牲は以前よりも大きくなり、著作活動に与えられる援助は小さくなっていく。著作活動の増分がゼロになる前に、価格増分には意味がないと言ってもよいはずだ。出版量の増加につながる取引には同意できるが、最大限の増加を目的とする取引には同意できない。
出版物を最大限に増やすという目標を受け入れることは、より賢明でより有利な取引をすることをあらかじめ封じることになる。最大化政策は、出版物のほんのわずかな増加のために、すべての自由を出版物に明け渡せと国民に命令するものである。
実際には、犠牲となる自由を省みず、出版物を最大限まで増やすという目標は、「コピーは、違法、不正で本質的に悪い」と断言する広く行き渡ったレトリックによって支えられている。たとえば、コピーをする人間を「海賊」と呼ぶが、これは隣人と情報を共有しようとすることを船に攻撃を仕掛けることと同じだとみなす誹謗中傷である(この中傷語は、もともと無許可版を出版する合法的な方法を見つけた出版社に対して著作者が使っていたものだが、出版社による現在の使い方は、ほとんど逆の意味になっている)。このレトリックは、著作権に対する憲法的な基礎を直接否定するものだが、アメリカの法制度の当然の伝統を表すものとしてそびえ立っている。
「海賊」のレトリックが受け入れられているのは、それがメディア全体を覆い尽くし、その過激な意味を理解している人がほとんどいないからである。このレトリックは非常に効果的であり、国民がコピーすることが基本的に違法なのだとすれば、出版社が国民の自由を代償とする要求を掲げてきたときに国民は反論できなくなってしまう。つまり、出版社に新たな権力を与えるべきではない理由を国民が述べなければならなくなったときに、何よりも重要な「コピーしたい」という理由があらかじめ排除されてしまうのである。
そのため、著作権の強化への反論には、副次的な争点しか持ち出せなくなる。今日の著作権強化に対する反論が、副次的な争点ばかりを持ち出し、正当で公的な価値としてのコピー頒布の自由をほとんど言い出せないでいるのは、そのためである。
現実問題として、「特定の行為が出版社の営業成績を引き下げる、あるいはそういう結果をもたらす可能性があると考えられるがゆえに、その行為は、何らかの量の出版物を減らすことになると思われるので、その行為は禁止されるべきである」といった類の出版社側の論拠を成立させているのは、最大化目標にある。私たちは、国民の利益が出版社の営業成績によって計られるという粗暴な結論に導かれているのである。メディア全般にとって良いものがアメリカ全体にとって良いものになってしまうのだ。
出版社は、あらゆる犠牲を払ってでも出版物を最大限まで増やすという政策目標への同意を勝ち取ると、次の段階では、その目標を実現するためには自分たちに最大限の権力を与えることが必要だという推論を引き出そうとする。つまり、想像できるあらゆる用途に著作権が及ぶようにしたり、「シュリンクラップ」ライセンスなどの法的な小道具を使って同等の効力を獲得しようとする。この目標は、「公正利用」や「消尽の法理」などの全面破棄などを含むもので、州政府から国際機関に至るあらゆるレベルの政府が支持している。
この段階の誤りは、厳格すぎる著作権法が、役に立つ新しいものの創造を阻むところにある。たとえば、シェークスピアは、一部の自作台本の中で、数十年前に出版された他の台本から筋書きを借用している。今日の著作権法が当時有効なら、彼の台本は違法ということになってしまうだろう。
たとえ、国民が支払う代償の高低にかかわらず出版物の量を最大限に引き上げたいのだとしても、出版社の権力を最大限に引き上げるのは誤りである。進歩を促進する手段として、この政策は自滅的である。
昨今の著作権法の流れは、出版社により広範な権力をより長期にわたって差し出す方向にある。発生時の著作権の概念的な基礎は一連の誤りによって歪められ、ノーと言うための基礎をほとんど提供してくれない。立法者たちは、国民のための著作権という思想にリップサービスを使いながら、実際には出版社に求められたすべてのものを与えている。
たとえば、ハッチ上院議員は、S.483 (著作権の有効期限を20年延長する 1995年の法案)を提出したときに次のように語った。
私は、著作権の現在の有効期限が著作者の利益を充分に保護できるか、またそれに付随して、著作権の現在の有効期限が新しい作品を創作する充分な動機を提供し続けられるかという疑問を検討すべき時期に差し掛かっていると考える。
この法案は、1920年代以降に書かれた出版済みの作品の著作権を延長した。すでに出版されている本の数を今から遡って増やすことはできないので、この改正は、国民にまったく利益を与えずに出版社に一方的に利益を与える不公正なものになった。しかも、国民の自由、すなわち当時の本を再頒布する自由は犠牲になったまま今日に至っている。
同法案は、まだ書かれていない作品の著作権の有効期限も延長した。無名著作物の著作権は、現行の75年から95年に延長される。理論的には、これで新しい作品を書く動機は増すだろう。しかし、この新たな動機の必要性を主張した出版社は、2075年の貸借対照表を添えて、自らの主張を実証しなければならなかったはずである。
言うまでもなく、議会は出版社の主張に疑問を差し挟みはしなかった。著作権を延長する法律は1998年に成立した。この法律は、その年の初めに亡くなった資金提供者の1人の名前を取って、ソニーボノ著作権保護期間延長法と呼ばれている。彼の著作権を継承した未亡人は、次の声明を発表した。
実際には、ソニーは著作権が永遠に継続することを望んでいました。しかし、スタッフから、そのような法改正は憲法に抵触するだろうという知らせを受けました。私たちの著作権法を可能なあらゆる方法で強化するために、すべての皆さんで闘いましょう。ご存知のように、永遠マイナス1日の存続というジャック・バレンティの提案もあります。おそらく、委員会は次の議会でこの提案を検討するでしょう。
最高裁は、遡及的な延長は憲法が掲げる進歩の促進という目標に反するという論拠に基づき、同法の違憲判決を目指す訴訟で原告勝訴の判決を下した。
1996年に成立した別の法律では、すべての出版済みの作品について、たとえ友達のために贈る場合でも、充分多数のコピーを作ることが重罪とされることになった。合衆国では、このようなことが犯罪とされることはそれまで決してなかったのである。
さらにひどい悪法、デジタルミレニアム著作権法(DMCA)は、コピープロテクトを破ること、さらには破り方を公表することさえ犯罪とすることによって、コピープロテクト(コンピュータユーザーが憎んでいるもの)を復活させることを目的として作られたものである。この法律は、実質的に出版社に対して独自の著作権法を制定するチャンスを与えるものであり、「メディア企業による支配法(Domination by Media Corporations Act)」とでも呼ぶべきものである。DMCAには、出版社は作品の用途について任意の制約を課することができると書かれており、その制約を強制するための暗号/ライセンスマネージャが作品に埋め込まれている場合には、制約が法律としての効力を持つとも書かれている。
この法案の論拠の1つは、著作権強化を目指す最近の条約を履行できるようにするというものだった。その条約なるものは、著作権・特許権保持者に支配された機関である世界知的財産権機関(WIPO)がクリントン政権の協力を得て制定したものである。この条約は著作権を強化するだけなので、どこの国でも国民の利益に奉仕するかどうかは疑問である。いずれにせよ、DMCAは、条約が要求している線よりもはるかに先に進んでいる。
この法案、特に「公正利用」とみなされるコピーを禁止する部分についての反論の主な論拠は図書館だった。出版社は、この議論にどのように反論したのだろうか。米国出版者協会の前代表で、今はロビイストとして活躍しているパット・シュレーダーは、出版社は「[図書館から]求められていることを認めたのでは生きていけない」と言った。図書館は、現状の一部を残すことを求めていただけである。このような議論に対しては、出版社が今までどうやって生き残ってきたのか不思議だと反論することができるだろう。
バーニー・フランク下院議員は、私を含む法案反対者たちとの会合の場で、合衆国憲法の著作権思想がどこまで軽視されているかを身をもって示した。彼は、「“映画産業”、“音楽産業”などの各種“産業”の懸念を払拭するために、罰則を伴う新しい権力が緊急に必要とされている」と語った。私は、彼に尋ねた。「でも、それは国民の利益なのですか」 彼の返答はこうだった。「なぜ、国民の利益などを持ち出すのだ。これらの創造的な人々が国民の利益などのために自らの権利を放棄する必要はない!」 「産業」がそこに雇われている「創造的な人々」と同一視され、著作権が独自の資格をもって扱われ、憲法が逆立ちさせられている。
DMCAは、1998年に成立した。立法時に、公正利用は名目的な合法性を保ったが、出版社の圧力に負けて、公正利用を行使するためのソフトウェアやハードウェアの禁止を認めてしまった。公正利用は、実質的に禁止されてしまったのである。
映画産業は、DMCAに基づき、DVDを読み、再生するフリーソフトウェア、さらには読み方についての情報にさえも、検閲をかけてきた。2001年4月には、プリンストン大学のエドワード・フェルテン教授が、全米レコード産業協会(RIAA)からの告訴の脅迫に屈し、録音済み音楽へのアクセスを制限する暗号化システム案についての研究内容をまとめた科学論文を取り下げた。
読者の伝統的な自由の多くが取り除かれたe-book (電子ブック)も見かけるようになった。たとえば、友人に本を貸す自由、古本屋に売る自由、企業のデータバンクに自分の名前を記入せずに買う自由、さらには2度読む自由である。暗号化された e-bookは、一般にこれらすべての行為を制限する。読者の自由を制限するために作られた特別な秘密のソフトウェアがなければ、それらは読めない。
私はこのような暗号化され、制限の付けられたe-book を決して買うつもりはないし、あなたも拒否してくれたらと思っている。e-book が従来の紙の本と同じ自由を与えてくれないのなら、そのようなものを受け入れてはならない!
制限付きのe-book を読めるソフトウェアを自主リリースした人は、訴追のリスクを負うことになる。2001年、ロシアのプログラマ、ディミトリー・スクリヤロフは、あるコンファレンスで講演するために米国滞在中に逮捕されたが、それは彼がそのようなプログラムを書くことが合法的に認められているロシアでそのようなプログラムを書いたからである。現在、ロシアも同様の行為を禁止する法律を準備しており、EUは最近同様の法律を成立させた。
今まで、一般市場向け e-bookは、商業的に失敗してきたが、それは読者がそれぞれの自由を守ることを選んだからではない。コンピュータの画面が読みにくいなどの別の理由でe-book が魅力的ではなかったからである。私たちは、この幸運な偶然が長期にわたって私たちを守ってくれると考えてはならない。次世代のe-bookは、「電子・ペーパー」を使うようになるだろう。これは、暗号化され、制限が付けられた e-book をダウンロードできる本型のオブジェクトである。この紙風の表示が現在の画面よりも魅力的なら、私たちは自由の擁護のために発言しなければならないだろう。一方で、e-book は隙間から侵入しつつある。NYUを始めとするいくつかの歯科大学では、学生たちは制限付きのe-book 形式の教科書を買わなければならない。
メディア企業は、それでもまだ満足していない。2001年には、ディズニーの献金を受けているホーリングス上院議員がSSSCA(セキュリティシステム標準および証明書発行法)という法案*1を提出した。これは、すべてのコンピュータ(およびその他のデジタル記録再生装置)に強制的に政府指定のコピー制限システムを搭載させるというものである。これは彼らの最終的な目標だが、そこに至る日程表の第1項目は、国民が「みだりに変更」できないように(つまり、自分の目的で変更できないように) 設計されていない限り、デジタルハイビジョンテレビチューナーを販売できないようにすることにある。フリーソフトウェアはユーザーが書き換えられるソフトウェアなので、私たちは特定の仕事を対象とするフリーソフトウェアの開発を明示的に禁止する法案に初めて直面することになったわけである。おそらく、他の仕事の禁止もあとに続くだろう。連邦通信委員会(FCC)がこの規則を採用したら、GNU Radio などの既存のフリーソフトウェアは禁止される。
これらの法案や規則の成立を阻止するためには、政治行動が必要だ*2。
著作権政策の適正な決め方はどのようなものだろうか。著作権が国民のための廉売なのであれば、何よりもまず国民の利益に奉仕しなければならない。政府が国民の自由を売りに出すときの義務は、売らなければならないものだけを売ることと、できるだけ高く売ることである。最低でも、同程度の出版部数を確保しつつ、著作権の範囲を最小限に切り詰めなければならない。
建設プロジェクトの場合とは異なり、最低価格は競争入札ではわからない。では、どのようにして最低価格を見つけたらよいのだろうか。
1つの可能な方法としては、段階的に著作権を縮小し、結果を観察するというものがある。出版点数が目に見えて減少したら、国民の目的を達成するために必要な著作権の程度というものがわかる。私たちは、出版社が起きるだろうと言っていることからではなく、実際の観察からこれを判断しなければならない。出版社は、どのような形であれ、自らの権力が弱体化されるとなれば、予想を誇張して述べる動機を十二分に持っている。
著作権政策には、いくつかの独立した軸が含まれている。それらの軸は、別個に調整できるはずだ。独占的な複製作成権を発行日以降10年に短縮するのが第一歩としては適切だと思う。派生的な作品の製作など、著作権のその他の側面については、より長期にわたって継続してもよいと思う。
なぜ発行日から起算するのか。それは、出版されていない作品の著作権は、読者の自由を直接的に制限しないからである。コピーがないのに作品をコピーする自由があるかどうかを論じても無意味である。だから、著作者に作品を出版するまでの時間をより長く与えても、害はない。著作者(一般に、出版に先立って著作権を保持している)は、著作権が切れるのを先延ばしにするために発行日を遅らせるようなことをまずするものではない。
なぜ10年なのか。それは、提案として安全だからである。私たちは、この数字まで期間を短縮しても、今日の出版物の寿命にはほとんど影響を与えないという現実的な根拠を提出できる。ほとんどのメディア、ジャンルにおいて、成功した作品が特に大きな利益をもたらすのは数年であり、成功した作品でさえ、発行後10年以内に品切れになることが多い。数十年にわたって実用的な生命を失わない参考図書でも、著作権は10年で充分である。ほぼ定期的に改訂版が発行されれば、多くの読者は10年以上経過したパブリックドメイン版ではなく、著作権付きの最新版を買うものだ。
あるいは、10年でも必要以上に長すぎるかもしれない。全体が落ち着いたら、制度の最適化のためにさらに期間を削減してみるとよいだろう。文学関係のある大会で開かれた著作権についてのパネルディスカッションで私が10年論を提案したところ、私の隣に座っていたある著名なファンタジー作家が私に激しく反論した。5年以上は問題外だというのである。
しかし、あらゆるタイプの仕事に同じ期間を適用する必要はない。著作権政策において極端な画一性を維持することは、国民の利益にとってどうしても必要なことではないし、現行の著作権法自体、すでに特定の用途やメディアに対してはさまざまな例外を持っている。国内のもっとも高価な地域のもっとも困難なプロジェクトで必要とされる経費をすべての高速道路プロジェクトにかけるのは馬鹿げている。同様に、最高値の自由を差し出す必要性が感じられるような特定の分野の作品と同じだけの自由をすべての作品に「支払う」のも馬鹿げている。
おそらく、小説、辞書、コンピュータプログラム、歌、交響曲、映画は、それぞれ有効期限の異なる著作権を持つことになるだろう。そうすれば、それぞれの種類の仕事について、多くの作品が出版されるために必要なところまで有効期限を短縮していくことができるだろう。1時間以上の映画は、製作コストから考えて、著作権を20年としてもよいかもしれない。私自身の分野であるコンピュータプログラムでは、3年もあれば充分である。実際の製品サイクルは、それよりも短い。
公正利用の範囲も、著作権政策の中の独立した軸の1つである。著作権法の保護下にある出版された作品の全部または一部の複製の作成を合法的に認める方法は、いくつか考えられる。著作権のこの軸における緩和のための自然な第一歩は、個人の間で少量非営利臨時の私的なコピー、頒布を認めることだろう。こうすれば、個人の私生活に著作権警察が足を踏み込んでくるのを防ぐことができるし、出版された作品の営業成績に大きな影響を与えることはあまりないだろう(また、このようなコピーの制限のために、著作権に代えてシュリンクラップライセンスを使うことを禁止するための法的な措置も必要になるはずだ)。Napster の経験からも、一般人に非営利の本文に一切の変更を加えない複製の再頒布を認める必要があることは明らかである。非常に多くの国民がコピー、共有を望んでおり、それが非常に有益なことがわかっている場合、それを止められるのは厳罰主義だけだろう。そして、国民は必要としているものを手に入れる権利を持っている。
小説を始めとして一般に娯楽用に使われる作品の読者の自由としては、非営利の本文に一切の変更を加えない再頒布を保証すれば充分だろう。しかし、機能的な目的で(仕事を終わらせるために)使われるコンピュータプログラムについては、改良版の出版の自由を含むより踏み込んだ自由が必要である。ソフトウェアユーザーが持つべき自由については、本書の第3章 「フリーソフトウェアの定義」を参照していただきたい。しかし、これらの自由を広く認めるのは、プログラムの発売から2、3年後に限るというような妥協は許容範囲内かもしれない。
このような変更を加えれば、国民のデジタルテクノロジーをコピーしたいという希望に著作権も追い付くようになる。出版社は、間違いなく、これらの提案を「衡平を欠く」とみなすだろう。彼らは、石を捨てて家に帰ると脅すかもしれない。しかし、このゲームはまだ収益を生むし、街で行われている唯一のゲームになるので、彼らが本当にそうすることはないだろう。
私たちは、著作権の弱体化を検討するのと同時に、メディア会社が単純に著作権の代わりにエンドユーザーライセンス契約を使えるような状態を放置してはならない。著作権法が認めている範囲を越えてコピーに制限を加える約款の使用を禁止する必要がある。大市場における交渉抜きの約款に対するその種の規制は、アメリカの法制度の標準的な構成要素である。
私はソフトウェアデザイナーであって、法学者ではない。私が著作権問題に懸念を持つようになったのは、コンピュータネットワーク*3の世界ではこの問題を避けられないからである。コンピュータとネットワークを30年以上使ってきた1人のユーザーとして、私は、私たちが失ってきた自由、次に失いそうな自由の価値の高さを知っている。また、1人の著作者として、出版社が著作権強化を正当化するときによく目にする準創造主としての著作者というロマンティックな神話を拒否することができる。著作者は、どうせ契約によってそれを出版社に譲り渡すことになるのだ。
本稿の大半は、読者がチェックできる事実と根拠、および読者が自分自身の意見を持てる提案から構成されている。しかし、私が言っていることのうち、たった1つだけはどうか受け入れていただきたい。それは、私のような著作者には、あなたに対して特別な権力を持つ権利はないということである。私が書いたソフトウェアや書籍のために私にさらに報酬を提供したいというのであれば、私は喜んでそれを頂戴することにしよう。しかし、あなたの自由を放棄して私の名義にするようなことだけは決してしないようにしていただきたい。
初出: 本稿は従来未発表だったもので、"Free Software, Free Society: SelectedEssays of Richard M. Stallman", 2002, GNU Press (http://www.gnupress.org/);ISBN 1-882114-98-1の一部である。
本文に一切の変更を加えず、この著作権表示を残す限り、この文章全体のいかなる媒体における複製および頒布も許可する。